はじめに-武田勝頼とはどんな人物だったのか
武田勝頼(たけだ・かつより)は、武田信玄の子であり、後継者として甲斐を治めた武将として有名です。天正3年(1575)の長篠の戦いで、徳川家康・織田信長連合軍に大敗したことから、「名門武田家を滅亡させた愚将」というイメージをお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。
そんな勝頼ですが、実際はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、読み解いていきましょう。
2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、強靭な体力と精神を併せ持ち、父・信玄から受け継いだ知略・軍略をもって、武田氏の最大領域を実現。三方ヶ原の戦いで、大打撃を与えた家康をさらに追い詰める人物(演:眞栄田郷敦)として、描かれます。
目次
はじめに-武田勝頼とはどんな人物だったのか
武田勝頼が生きた時代
武田勝頼の足跡と主な出来事
まとめ
武田勝頼が生きた時代
勝頼の生きた時代、父・信玄が軍事においても内政においても大きな功績をあげ、その名をとどろかせていました。信玄の存命中は領土を拡大していきましたが、勝頼の時代になるとやがて衰退へと向かいます。
武田勝頼の足跡と主な出来事
勝頼は天文15年(1546)に生まれ、天正10年(1582)に亡くなりました。その生涯を、出来事とともに見ていきましょう。
信玄から家督を継ぐ
勝頼は信玄の四男として、天文15年(1546)に生まれます。当初、勝頼は四男であるという理由から、武田氏ではなく母方の諏訪(すわ)氏の跡取りにされました。永禄5年(1562)には、伊那(いな)郡高遠(たかとう)城代として正式に諏訪四郎勝頼を名乗ります。
ところが、永禄8年(1565)に信玄の長男・武田義信(よしのぶ)が謀反を画策していたことが露呈し、反逆罪により刑死させられます。信玄と義信は、以前から仲が悪かったそうです。義信の死後、武田氏の家督を継承できる人物がいなかったことから(次男は盲目、三男は早逝)、勝頼が嗣子に定められます。
信玄は天正元年(1573)に病没。その後、勝頼が家督を継ぐことに。ただし、信玄の遺言により喪は3年間秘密とされました。その間、勝頼は信玄の竜朱印と「晴信」の朱印を用いていたそうです。
【長篠での敗北と武田氏の滅亡。次ページに続きます】