はじめに-「金ヶ崎の退き口」とはどんな戦いだったのか
「金ヶ崎の退き口(かねがさきののきぐち)」とは、元亀元年(1570)に勃発した「金ヶ崎の戦い」にて発生した信長の退却戦のことです。この時、浅井長政に嫁いでいた織田信長の妹・お市の方が両端を結んだ小豆袋を届けて挟み撃ちを知らせた、という逸話は広く知られています。このエピソードは創作だとされていますが、大河ドラマや時代小説などでもたびたび取り上げられる有名な話でしょう。
本記事では、「金ヶ崎の退き口」がどのような戦いであったかについて解説します。
目次
はじめに-「金ヶ崎の退き口」とはどんな戦いだったのか
「金ヶ崎の退き口」はなぜ起こったのか?
関わった武将
この戦いの内容と結果
「金ヶ崎の退き口」、その後
まとめ
「金ヶ崎の退き口」はなぜ起こったのか?
北近江(現在の滋賀県)の戦国大名・浅井長政が勢力を拡大していた頃、信長は美濃国(現在の岐阜県)の斎藤氏攻略に手を焼いていました。そこで、長政と協力することで、斎藤氏を挟み撃ちできると考えた信長は、永禄10年(1567)、長政に対して同盟を提案。
自身の妹・お市との結婚を約束し、朝倉家を攻撃しないという条件を承諾して、信長は長政と同盟を結ぶことに成功しました。この同盟が功を奏し、信長は念願だった斎藤氏攻略に成功するのです。
勢いづいた信長は、自身の権力を誇示するとともに、さらなる勢力拡大のため、足利義昭を擁立して上洛します。
そして、新たに将軍職に就いた義昭に挨拶するようにと、信長は諸大名にも上洛を要求しました。しかし、越前国(現在の福井県)の戦国大名・朝倉義景はこれを拒否。義景の態度に腹を立てた信長は、長政と交わした約束を破り、朝倉征伐に乗り出したのです。
信長率いる連合軍が朝倉領の金ヶ崎城を攻め入ったという知らせを耳にした長政は、同盟を結んだ信長に味方するか、それともかねてより恩義のあった朝倉氏に味方をするかという究極の選択を迫られることに……。悩んだ末、長政は信長に反旗を翻すことを決意しました。
この長政の裏切りにより、勢いづいていた信長たちが窮地に追い詰められる「金ヶ崎の退き口」が発生することとなったのです。
関わった武将
では、「金ヶ崎の退き口」に関わった主な人物について紹介します。
織田側
・織田信長
尾張国の戦国大名。破竹の勢いで朝倉氏に攻め入った信長ですが、信頼していた義弟のまさかの裏切りにより、窮地に立たされます。
・徳川家康
岡崎城主・松平広忠の子として生まれ、幼少期を織田氏・今川氏の人質として過ごします。朝倉討伐の際は、信長に同行。長政が出陣したことで、いつ命を落としてもおかしくない状況にまで追いつめられることに……。
・豊臣秀吉
農民出身にも関わらず、優れた行動力と才覚によって天下人の座に上りつめた三英傑の一人。金ヶ崎の戦いでは殿(しんがり)を務め、功績として黄金数十枚を賜ったと伝えられています。
・明智光秀
信長のもとで大出世を果たした戦国大名。金ヶ崎の戦いでは、秀吉と同じく殿を務め、その功績を称えられて宇佐山城(滋賀県大津市にあった城)を与えられます。
・松永久秀
東大寺焼き討ちなどの大胆な行動に出ることが多く、悪名高い武将として知られています。しかし、先見の明に優れ、金ヶ崎の戦いでは、信長を無事に撤退させるために尽力するなど、勢力を拡大していた信長に臣従することに。
朝倉側
・朝倉義景
越前国の戦国大名。織田家とは元々仲が悪かったということもあってか、信長からの上洛要請を聞き入れようとしませんでした。
・浅井長政
北近江の戦国大名。信長と朝倉氏との間で揺れ動き、結果として「金ヶ崎の退き口」の要因をつくることになります。
【この戦いの内容と結果。次ページに続きます】