はじめに-五徳姫とはどんな人物だったのか?
五徳姫は、徳姫・五徳とも呼ばれる、織田信長の娘です。桶狭間の戦いで今川義元が倒れたことをきっかけとして、家康は今川氏からの独立を果たしました。その後、敵対関係にあった織田氏と同盟を結ぶことに成功したのです。この時、同盟の証として家康の長男である松平信康に嫁ぐこととなったのが、五徳姫でした。
信長の娘と聞くと、何となく気が強い女性をイメージしてしまいますが、実際の五徳姫はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、優しさと上品さを兼ね備えた信長の娘(演:久保史緒里)として描かれます。
目次
はじめに-五徳姫とはどんな人物だったのか?
五徳姫が生きた時代
五徳姫の足跡と主な出来事
まとめ
五徳姫が生きた時代
五徳姫は、桶狭間の戦いが勃発する前年の永禄2年(1559)に生まれます。五徳姫が生まれた頃の織田家は、家督を継いだ信長が、不安定になっていた尾張国(現在の愛知県西部)を安定させるべく邁進している最中でした。そこに、尾張の領土を虎視眈々と狙っていた今川氏が接近してきたのです。
兵力も経験値も今川氏の足元にも及ばない信長に、勝ち目はないものと思われていましたが、信長の知略によって、織田軍は今川氏に打ち勝つことができました。また、当時今川氏に人質として捕らえられていた家康は、この戦いを契機として今川氏から離反することに。そして、敵の信長と同盟を結び、互いの子を結婚させることにしたのです。
信長の娘・五徳姫は、信長と家康が友好関係にあるという証として、家康の息子・信康のもとに送られたと言えるでしょう。
五徳姫の足跡と主な出来事
五徳姫は、永禄2年(1559)に生まれ、寛永13年(1636)に没しました。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。
織田信長のもとに生まれる
永禄2年(1559)、五徳姫は信長とその側室の生駒(いこま)のもとに生まれます。信長の嫡男である信忠(のぶただ)と、後に家康とともに秀吉と戦うこととなる信雄(のぶかつ)の二人の兄がおり、五徳姫は末子でした。信長は、末娘の五徳姫をたいそう可愛がったそうです。
ところで、「五徳」とは炭火などの上に設置する、鍋やヤカンを置くための器具のこと。信長はほかにも、自分の子どもに「奇妙丸」や「茶筅(ちゃせん)丸」など、変わった名前を付けています。今で言うところのキラキラネームのようにも思えますが、信長なりの愛情が込められた名前と言えるかもしれません。
家康の長男・信康に嫁ぐ
桶狭間の戦い後、三河国の安全を確保するため、信長と同盟を結ぶことを決意した家康。信長もこれを受け入れ、永禄10年(1567)、同盟が結ばれた証として、五徳姫は家康の長男・信康に嫁ぐこととなったのです。この時、五徳姫も信康もわずか9歳という若さでした。
元亀元年(1570)、本拠地を浜松に移した家康は、岡崎城を信康に譲り、新たに築城した浜松城を居城としました。家康が浜松に移り住んだことで、岡崎城は息子の信康とその妻の五徳姫、そして家康の正室であり信康の母である築山殿の居城となったのです。
【父・信長に訴状を送る。次ページに続きます】