はじめに-松平元康の「桶狭間の戦い」とはどんな戦いだったのか
「桶狭間の戦い」とは、永禄3年(1560)に、桶狭間(現在の愛知県豊明市、名古屋市緑区一帯)で織田信長が今川義元を破った戦です。信長の天下統一の第一歩となった戦として有名ですが、後の天下人である徳川家康も、この戦いに参戦していたことをご存知でしょうか? まだ「徳川家康」と名乗る前の「松平元康(もとやす)」として、今川軍に加わっていました。では、松平元康にとって「桶狭間の戦い」とはどのような出来事だったのでしょうか。元康に焦点を当てて、解説をしていきます。
目次
はじめに-松平元康の「桶狭間の戦い」とはどんな戦いだったのか
桶狭間の戦いはなぜ起こったのか?
関わった人物たち
この戦いの内容と結果
桶狭間の戦い、その後
まとめ
桶狭間の戦いはなぜ起こったのか?
松平元康は、三河(愛知県東部)の大名・松平広忠(ひろただ)の子として生まれます。当時の松平氏は、今川氏と織田氏との両勢力に挟まれた弱小の大名で、広忠は今川方に属していました。松平家に生まれた元康(幼名は竹千代)は、8歳で今川氏の人質となります。
8歳で駿府に移り、今川氏の人質となった元康。幼い頃から義元の名軍師・太原雪斎(たいげんせっさい)の臨済寺(りんざいじ)で教育を受け、のちに義元の姪(築山殿)を妻とするなど、まさに一門に近い扱いを受けていました。
元康を育てた駿河国の今川氏は、門地・実力および領国の地理的条件から、上洛して将軍を補佐し、実権を握る条件に恵まれていました。西進を目指す義元は、まずは三河を掌中に収めます。そして領国である東部の政治を安定させるため、天文23年(1554)には政略結婚による北条氏康(うじやす)、武田晴信(はるのぶ=信玄)との三者同盟を完成させたのでした(=「甲相駿(こうそうすん)三国同盟」)。
そうして、永禄元年(1558)ごろから織田氏の統べる尾張への侵入の意図を露骨にし、前線拠点を置くなどしました。これに対し織田信長は城塞を築いて防備を固めましたが、家臣団の統制も十分でなく、守勢であったとされます。そこで義元は永禄3年(1560)5月、ついに兵を率いて上洛の軍を興し、三河・尾張の国境に進出したのでした。
関わった人物たち
桶狭間の戦いに関わった、主な人物をご紹介しましょう。
今川方
・今川義元
駿河国および遠江国を治めた戦国大名。東海を統べる今川氏の最盛期を築いた人物であり、松平竹千代を人質とした。
・松平元康
三河の小大名・松平氏に生まれ、幼年時代は隣国である駿河の大名・今川氏の人質となった。
織田方
・織田信長
尾張国(現在の愛知県)出身の戦国大名。敵対する勢力を撃破し、天下統一を目指した。
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