織田信長の家臣としての経歴
信長にも仕えるようになった光秀は、さまざまな活躍を見せます。
元亀元年(1570)、信長は上洛命令を拒否した朝倉氏へ攻撃を開始します。この時、信長の妹・お市の方が嫁いで同盟を結んでいたはずの浅井長政(あざい・ながまさ)が謀反を起こしました。前は朝倉軍、後ろは浅井軍に挟撃され、信長は撤退を余儀なくされます。
撤退時、光秀は木下藤吉郎秀吉(後の豊臣秀吉)とともに敦賀の金ヶ崎(かねがさき)において殿(しんがり)を務め、敵の追撃を防ぎました。
元亀2年(1571)には、光秀は比叡山焼き討ちにも関わります。比叡山は浅井・朝倉軍をかくまったことで、信長から敵視されることになりました。光秀から比叡山焼き討ち準備完了の報告を受けた信長は、石山本願寺へ向かうと見せかけて比叡山を包囲、全軍に焼き討ちを命じます。
その後、光秀は比叡山攻略の功労として比叡山延暦寺の遺領を信長から与えられ、織田家臣の中で初めて居城の築城までも許されました。これに伴い、光秀は坂本城(滋賀県大津市)の城主になっています。その後、光秀は比叡山焼き討ちで破壊された寺の再建や梵鐘の寄進などを行いました。
天正3年(1575)、光秀は信長の命を受けて、丹波攻めを開始。天正7年(1579)に丹波を平定した光秀は、福知山にて中世に築かれた横山城を改築して、居城としました。これが今の福知山城の元になります。
丹波の統治にあたっては、税を免除するなど政策で領民から慕われていたそうです。福知山の伝統的な盆踊りで、福知山市の無形民俗文化財にもなっている「福知山音頭と踊」には「明智光秀丹波を拡め」という歌詞があり、当時の領民の光秀に対する思いが読み取れます。ちなみに、「福知山音頭と踊」は光秀が福知山城の修復を行った際に人夫たちが歌っていたものをルーツとするそうです。
本能寺の変から敗死まで
しかし、さまざまな活躍を見せてきた光秀にも最期の時が近づきます。
天正10年(1582)、光秀は中国地方の毛利氏と交戦していた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)を支援するための出陣を命じられます。6月1日の夜に出発しましたが、翌6月2日、本能寺に滞在していた信長を襲い自刃に追いやり、ついでその長男・信忠 (のぶただ) も自害させました。
しかし、事件の一報を受けた秀吉が早急に毛利氏と和睦し、京都に向かったので、当初の計画がくるってしまうことに。山崎(京都府大山崎町)にて、秀吉と戦いましたが、敗北します。本拠地の坂本城に逃げる途中、竹薮から突き出された竹槍に刺されて重傷を負い、その場で自刃しました。いわゆる「明智の三日天下」でした。
文化人としての深い知見と思いやり
家臣にあてた書簡や当時の名医との交流から、光秀は医学に通じていたようです。これらのことから、近年では光秀は医者でもあったという説が提唱されています。また、連歌にも通じており、藤孝とともに連歌会を主催することもありました。
それ以外にも、幕府や朝廷との交渉で合理的な判断をし、家臣や同僚、さらにはその家族にまで体調面など細やかな気づかいをする人物であったそうです。
娘の細川ガラシャ
光秀の娘の、キリシタンとして有名な細川ガラシャがいます。「明智玉子(たまこ)」という名前でした。才色兼備、戦国時代随一の美人とも称されることも。本能寺の変で、「逆賊の娘」と見なされることになり、丹後の山奥に幽閉されます。幽閉を解除された後は、カトリックに入信し、「ガラシャ」という洗礼名を受けました。
その後、徳川方についた夫・細川忠興(ただおき)の不在をついて石田三成が人質に取ろうと屋敷を包囲。ガラシャは家臣に槍で胸を貫かせ、短い生涯を終えました。
まとめ
光秀は、本能寺の変を起こした張本人として、信長に逆らったという印象が強調されがちですが、連歌や医学などに通じていた文化人としての側面や、税を免除して領民に慕われていた名君としての側面も重要です。さまざまな観点から光秀を見ることで、「新しい」光秀像に出会えるのかもしれません。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/三鷹れい(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)