はじめに-本多正信とはどんな人物だったのか
本多正信(まさのぶ)は、戦国時代から家康に参謀として仕えた側近です。江戸幕府創業期には、後の大老・老中に相当する地位にあったとされます。家康との仲を感じさせる逸話も多く、4歳年上である正信を「好物」とまで言っていたとも。そのため、正信は主従を超えた友情で結ばれた、家康の盟友といった印象をお持ちの方も多いのではないでしょうか。
では、実際の本多正信はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。
NHK大河ドラマ『どうする家康』では、胡散臭く、無責任な進言をする家臣団の嫌われ者(演:松山ケンイチ)として描かれます。
目次
はじめに-本多正信とはどんな人物だったのか
本多正信が生きた時代
本多正信の足跡と主な出来事
まとめ
本多正信が生きた時代
本多正信は、家康の4年前に松平氏の家臣の下に生まれました。家康が幼い頃から家臣として仕え、家康と同じ年に没した正信の生きた時代は、まさに天下人・家康が生きた時代そのものでもあります。
本多正信の足跡と主な出来事
本多正信は、天文7年(1538)に生まれ、元和2年(1616)に没しています。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。
松平氏譜代の家に生まれる
本多正信は、天文7年(1538)に松平氏の家臣の下に産まれました。三河国で、祖父の代から松平氏の譜代(ふだい)を務めた家柄で、父は本多俊正(としまさ)、母は家康の祖父・松平清康(きよまさ)の侍女だったとされます。代々、通称を「弥八郎(やはちろう)」と言い、松平氏の家臣だった本多氏。正信もまた、幼いころから4歳年下の家康に仕えました。
一度は家康に敵対するも、側近に
しかし、永禄6年(1563)に「三河一向一揆」が起こると、一揆方に参加して家康に敵対。翌年、三河国を出て諸国を流浪し、加賀(石川県)に逃れました。正信が再び家康の下へ帰ってきた年は明らかではありませんが、元亀元年(1570)の「姉川の戦い」で軍功をたてたという言い伝えがあります。
その後、天正10年(1582)の「本能寺の変」の後、滅亡した武田氏に代わり、家康は甲斐国経営を行います。正信は、井伊直政・大久保忠隣(ただちか)・高木広正(ひろまさ)らとともに奉行として活躍。家康の文書の発給に関係していることから、この頃までに家康の側近となっていたことがわかります。
関東を支配する地位に就く
天正14年(1586)には、従五位下佐渡守(じゅごいさどのかみ)に叙任。同18年(1590)、家康の関東入国にともない、上野国・八幡(やわた=現在の群馬県高崎市内)で1万石を与えられました(相模国・甘縄との説もあります)。のちに加増されて2万2000石を領した正信は、関東中の農村から江戸市中を支配し、旗本・代官を規制する「関東総奉行」に任ぜられたのでした。
慶長5年(1600)6月には、家康の上杉景勝(かげかつ)攻めに従って下野国・小山(おやま)に随行。しかし、その後の「関ヶ原の戦い」では家康ではなく、その子・秀忠(ひでただ)に従いました。秀忠の下で信州国・上田城にこもる真田昌幸・幸村父子を攻めたことで手間どり、美濃の本戦には参加しませんでした。
創業期の江戸幕府で中核を担う
慶長8年(1603)に江戸幕府が成立。正信は家康の側近にあり、井伊直政・本多忠勝・榊原康政・大久保忠隣とともに徳川政権の中枢を担ったのでした。
慶長10年(1605)ころから、家康の子・秀忠の側近に配置された正信。家康の側近であった、自らの子・本多正純(まさずみ)との連携のもとに、家康の意を受けて実質的に秀忠を指導したのでした。
【家康の後を追い、没する。次ページに続きます】