家康の後を追い、没する
元和2年(1616)6月7日、正信は死去。これは家康の死より49日後のことで、まるで家康の後を追うように没したのでした。79歳で亡くなった正信は、京都の本願寺に葬られています。家康とは主従というよりも、気心を知り合った友人であったとも言われ、君臣水魚(くんしんすいぎょ)の交わりともいうべき逸話が多数伝わっています。
書物『本佐録』は正信の著ではない…?
正信の著と伝えられるのが『本佐録(ほんさろく)』という書物です。これは第2代将軍・秀忠の問いに対する上申書の形式で、為政者の心得として、天道を知る事、百姓の仕置の事など七か条を述べたものになります。「百姓は財の余らぬように不足なきように治むる事道なり」の文章で著名です。しかし現在は、正信本人の著作ではなく、後人が著者を正信に仮託したものと考えられています。
また、他の逸話として、本多家はもともと、鷹狩に使う鷹の飼育・訓練を担当する「鷹匠(たかじょう)」であったという説も。貧しい家だったため、松平氏の鷹匠をして生活を支えていたと言われています。
まとめ
松平氏の家臣の下に生まれ、家康に仕えた「本多正信」。一度は家康に反旗を翻しながらも、江戸幕府を陰から支える謀臣にまで上り詰めたのでした。彼が家康側近の第一人者になれたのは武功を通じてではなく、智謀と行政的手腕によるものだったと考えられています。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/トヨダリコ(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)