はじめに-今川氏真とはどんな人物だったのか

今川氏真(うじざね)は、駿河国・今川義元の嫡男として生まれた武将です。義元の死後に家を継ぐも、あえなく国を失い、今川氏滅亡へと至ってしまったことから“ダメ息子”という印象を持たれることがあります。また、蹴鞠(けまり)に夢中になりすぎて家を傾けてしまった“情けない人物”という印象をお持ちの方も多いかもしれません。

では、実際の今川氏真はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。

2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、坊ちゃん育ちのプライド高い御曹司で、今川義元の嫡男(演:溝端淳平)として描かれます。

目次
はじめに-今川氏真とはどんな人物だったのか
今川氏真が生きた時代
今川氏真の足跡と主な出来事
まとめ

今川氏真が生きた時代

今川氏真が生まれたのは、戦国武将が支配権をめぐって争う戦国時代です。そのうち、駿河国を統べる父・義元は、領国の支配を確かなものにし、織田氏との戦いの後に松平竹千代(のちの家康)を人質として迎えるなど、有能な戦国大名だったとされます。そんな人物を父とし、氏真は名家・今川氏の嫡男として生まれました。その生涯は、かつて人質としていた家康とも深い関わりを持っていきます。

今川氏真の足跡と主な出来事

今川氏真は、天文7年(1538)に生まれ、慶長19年(1614)に没しています。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。

今川義元の子として生まれ、家督を継ぐ

今川氏真は、天文7年(1538)に駿河国の大名・今川義元の嫡男として生まれました。義元と、甲斐国の大名・武田信虎(のぶとら)の娘との間の子供です。永禄3年(1560)、桶狭間における父・義元の敗死により、家督を継承。今川氏10代目となり、領国経営を行いました。

しかし、氏真にとって、桶狭間の敗戦の打撃は大きく、体勢を立て直すことは難しいものでした。わずか7年足らずで、領国である駿河・遠江(とおとうみ)・三河は、武田・徳川・北条氏によって奪われることとなります。その過程について次項でご紹介しましょう。

今川氏真像(個人像)

武田軍に攻められ、逃亡

まず、三河の松平元康(徳川家康)が織田信長と結んで、今川氏からの独立を計ります。氏真はこれを攻めましたが振るわず、三河は松平氏の手中に帰したのでした。そのうえ、このころ今川家では、老臣・三浦義鎮(よししげ)が国政の実権を握っており、他の重臣が反発していたことで家中の統制が乱れていました。

これをみた甲斐の武田信玄は永禄10年(1567)に、信玄の長子・義信(よしのぶ)に嫁いだ氏真の妹を駿府に送り返し、父・義元の時に結んだ同盟を破棄。これを受けて、氏真は相模国・北条氏康(うじやす)とともに、報復手段として甲斐に対する「塩留(しおどめ)」を行いました。「塩留」とはすなわち「塩止め」のことであり、食塩の禁輸政策を指します。

ちなみに、氏真の策により甲斐が塩の不足に苦しんでいるのを知った上杉謙信が、敵である武田信玄に塩を送ったという伝説があります。この伝説が「敵に塩を送る」ということわざを生んだとされており、そのきっかけを作ったのが氏真の戦略だったのです。

しかし、翌年、信玄は徳川家康と結び、今川家中の反・三浦派諸氏を誘って駿河に侵入。今川氏の居館である駿府城(すんぷじょう)は焼かれ、氏真は逃れて掛川城に移ったのでした。

駿府城(復元)
今川氏の後に持ち主となった武田氏を、さらに家康が追い出し築城されたもの。

城と支配権を奪われる。次ページに続きます

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