奈良橋陽子(キャスティングディレクター、演出家)

─『ラスト サムライ』をはじめ日本とハリウッドの架け橋となる─

「名が知れていなくても役に合えばハリウッドは抜擢する。そこが腕の見せ所です」

「伝えたいことがあるから、それがアクションとなる。何を伝えたいのか。あなたたちはそこを掘り下げていない」。舞台後の講評では、奈良橋さんから厳しい指摘が飛んだ。

──日米を行き来する生活だそうですね。

「1年の3分の1は、アメリカにいます。本当に、行ったり来たりですね。“奈良橋さんのお仕事は何ですか?”と尋ねられると答えに窮するのですが、大まかにいうと、ハリウッドと日本を繋ぐ仕事をしています」

──繋ぐ、といいますと?

「キャスティングディレクターといわれる仕事です。トム・クルーズ主演で、日本からも渡辺謙さんや真田広之さんや多数の俳優が出演したハリウッド映画『ラスト サムライ』(2003年公開)を覚えているかしら? あの映画で、日本人キャストのキャスティングディレクターを務めたのが私です」

──キャスティングディレクターとは?

「日本ではまだ、馴染みのない仕事です。監督や映画会社から芸能事務所に直接、依頼が行くのが日本の慣習ですから。ハリウッドでは、プロデューサーや監督から、その役に求めている条件が提示されます。それに相応しい役者を、キャスティングディレクターが推薦し、オーディションで決まっていきます。大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に出演している菊地凛子さんは、2006年、『バベル』でハリウッドデビューを果たしましたが、この時、監督に凛子さんをずっと推していて、役を勝ち取った時は本当に嬉しかった。当時の凛子さんはまだそれほど名が知られていませんでしたが、役に合っていると判断されれば、ハリウッドは抜擢する。だからこそ、キャスティングディレクターの腕の見せ所なのです。

映画やテレビドラマを観たり、雑誌記事を読んだりして、いろいろな俳優の情報を自分の頭の引き出しの中に貯めておくのですが、それが、台本を読んだ時に“この人だ!”と出てくる。プロフィール写真を見た途端に閃いて“この子だ!”とオーディションに呼んだこともあります。オーディションに臨むにあたっては、台本の読み合わせや、英語の発音指導、演技のアドバイスなどさまざまなことを行ないます。紹介者というより、伴走者かもしれません」

──朝ドラのモデルにもなりました。

「『カムカムエヴリバディ』(’21~’22年)ですね? 作品の最後に、主人公が成長した姿としてアニー・ヒラカワというキャスティングディレクターが登場しましたが、NHKからは“参考にしたい”と取材を受けました。恥ずかしいので作品はきちんと観ていませんが」

──この仕事で大事なこととは。

「諦めないことです。しがみつくくらいに、ね。『ラスト サムライ』の時のことです。台本を読んで感動し、これは素晴らしい作品になるとわかった。すぐに日本側の大将を演じられるのは、渡辺謙さんしかいないと思いました。監督にも謙さんを真っ先に引き合わせたんです。ところが来日したばかりの監督は、時差ボケもあったのか、反応が鈍い。結局、大将役だけが決まらず、監督も不機嫌になった。そこで反則技ですが思い切って、謙さんをもう一度、推薦しました。再オーディションは成功でした。謙さんの演技を見る監督の目の輝きで、結果を聞く前からいけると確信しましたが。しつこくしつこく、諦めなかったお陰ね」

──これだと思ったら突き進む。

「仕事も演技も、結局は“自分は何をしたいのか”が鍵になります。実は私のもうひとつの仕事は、ハリウッドなど世界で通用する俳優を育てることで、世界の俳優たちがスタンダードとして学ぶメソッド(方法)を基本にした俳優養成所アップスアカデミーを立ち上げ、まもなく26年目になります。俳優のオダギリジョーさんはアップスアカデミーの一期生です。他にも多くの役者が巣立ち、何人もハリウッド映画で活躍しています。先ほどアップスアカデミーの受講生の舞台を観ていただきましたが、そこでの講評で強調したのもそのことです。伝えたいことがないと、演技も表面をなぞるものになってしまう。いったいこの役はどんな人間なのか。何をしたいのか。何を伝えたいのか。ここを徹底的に掘り下げないと、いい演技にならない。それができないなら、役者は辞めたほうがいい」

「映画や役は一度きり。通り過ぎたら戻れない。人生も同じことです」

──厳しいですね。

「そうですか? だって本気で挑まなければ、面白くないですよね。ぎりぎりまで粘って、ダメだと思ったところから踏ん張って突き進むと、自分の思いもよらないものが出てくる。だって目の前の映画や役は、一度きりなんです。通り過ぎてしまったら、もう二度と戻れない。一期一会 。人生も同じです。もちろん、踏ん張るのは苦しいですよ。でもドラマには、替えがたい喜びがあります」

──「ドラマ」とは?

「外国での生活が長かったせいか、今でも日本語が覚束ないことがあって。英語でものを考えてしまうのですが、drama(ドラマ)というのは、演技のことです。演技というと、自分から離れて役になりきることだと思う方もいるかもしれませんが、私はそう思いません。それよりも大事なことは、自分自身を使うこと。自分を表現したいと強く思うこと。演技は、自分の人生そのものといえます。だって、映画はライフ(人生)を描いているんですから」

アップスアカデミーの一角にある奈良橋さんのデスク。壁には演出した舞台や映画『ウィンズ・オブ・ゴッド』の仲間たちとの写真が飾られていた。

──ドラマとは人生である。

「私が幼いころ、当時では珍しく、父は8ミリフィルムのカメラを持っていて、兄、姉、私の3人をよく撮影してくれました。小さい頃から、自分が動いている映像を観ていたんですね。5歳の時に、日本でビビアン・リー主演の映画『風と共に去りぬ』が公開されたのですが、父に連れられて観に行きました。“役者”という言葉も仕事も知りませんでしたが、こうなりたいと思った。映画の中に、私のやりたいことが詰まっていました。ドラマに魅せられてしまったのです」

──ドラマに目覚めてしまった。

「同じ年に、外交官だった父が、国連の専門機関ICAO(イカオ・国際民間航空機関)の仕事の関係で、本部があるカナダに行くことになりました。一家での移住はすでに決まっていたようですが、親は私がどうしたいのか口にするのを待ってくれていた。答えですか? もちろん決まっています。“私も一緒に行きたい!”でした」

外交官だった父親が仕事の都合でカナダに移住することになり、5歳だった奈良橋さんは「一緒に行きたい!」と主張。飛行機で同地へと向かう。
多感な時期を、奈良橋さんはカナダの首都オタワで過ごした。写真は同地の女子校の友人と撮ったもの。「10代の頃にいろんな国の方たちと触れたことが大きかった」

──カナダ育ちなのですね。

「15歳まで向こうにいて、16 歳になる年に帰国しました。カナダに住み続けて、カナダの国籍を取得するという選択肢もあり、父もそうしていいといってくれていたのですが、私は生まれ故郷の日本で、役者になりたかったのです。帰国後はアメリカンスクールで学び、日本の演劇の専門学校を受けました。ところが、面接で落とされたのです。日本語がなっていない、という理由でした。イギリスやアメリカの演劇学校に進もうとも思いましたが、父が日本の大学で学んでも遅くはない、という。それでICU(国際基督教大学)に進んだんです。ところが……」

──予期せぬことが?

「そこで運命的な出会いをしてしまって。ICUは日本人だけでなく、外国人など多種多様な学生がいて、その中にジョニー野村がいました。ジョニーの父はルーマニアの元駐在官。母はルーマニア人でした。それはもう素敵だったのよ。一目惚れでした。私は在学中からニューヨークで演劇を学びたいと思っていたのですが、彼に相談すると“だったら婚約しよう”という。私は婚約して、アメリカに旅立ったのです」

──婚約者を残して渡米とは大胆です。

「それぐらい、どうしても役者になりたかったのね。演技を学びたい気持ちが強かった。なのに、せっかく学べる状況になったのに、そこに集中できない。悔しいけれど、ジョニーを愛していたのよ。遠く離れてそのことに気づきました。結局、アメリカでジョニーと結婚するのですが、この時のニューヨークでの葛藤や悩みが、自分という存在について考えたり、思いを言葉にしたりすることに大いに役立ちました。当時はそこまで気づいていませんでしたが。日本で、ジョニーと私は音楽プロダクションを立ち上げます。のちにジョニーがプロデュースすることになるのが、あのゴダイゴです」

──ゴダイゴ作品の作詞もなさったのですね。

「最初は、タケ(ゴダイゴのタケカワユキヒデさん)が書いてきた英詞を整理していたのですが、英語表現として少しおかしいところがあった。それで、私が書いた英詞に、タケがメロディをつけるようになりました。その頃、長男と長女が生まれていて、ふたりの子どもが寝てからの作詞でした。演技から急に作詞の仕事に移ったと思われるかもしれませんが、表現する、という意味で、私の中では一緒でした。その後、大学時代に参加していた英語劇のグループの演出を手掛けたり、英会話教室MLS(モデル・ランゲージ・スタジオ)を共同で立ち上げたり、いつも目まぐるしいですね」

「学ぶ気持ちに年齢は関係ない。求める気持ちがあるかどうかだけ」

──キャスティングのきっかけは?

「スピルバーグ監督が日中戦争下の中国を舞台にした『太陽の帝国』(1987年公開)という映画です。日本人俳優のオーディションなどを手伝いました。手を挙げたわけではなく、やってみたら信頼され、その後も仕事が来るようになりました。ハリウッドは、個人の仕事に対して評価してくれるのです。1992年には企画製作会社、’98年には俳優養成所アップスアカデミーを設立し、今に至ります。映画の監督をしたり、プロデュースをしたり、やっていることはバラバラのように見えますが、私にとっては全部ドラマなんです。自分の表現ですね。そうそう、オーディションで台本の読み合わせを手伝っていたら監督に気に入られ、そのまま俳優として映画に出演したこともあります。今も1件、俳優としての依頼が入っています」

──俳優養成所の後進も育っていますね。

「今までに3000人を超える俳優がここで学び、巣立っていきました。世界の演劇メソッドを学べる養成所は、日本でもアップスアカデミーだけでしょう。受講生たちもさまざまで、大学を出てから来る子もいれば、会社員から転身してくる方もいます。60代後半になって入った女性もいました。演技をしたい、という気持ちに年齢は関係ありません。大事なのは求め続ける気持ちがあるか。ここがないと、表現できません」

世界的俳優の育成をめざす「アップスアカデミー」。奈良橋陽子さんが主宰する俳優養成所だ。この日は受講生たちの舞台発表の日。終了後に、出演者と記念撮影が行なわれた。

──現在、75歳です。

「飛び回る毎日は続くのでしょうが、私がこの世からいなくなった時に、あとを濁したくないという気持ちが強い。息子や娘にも、アップスアカデミーのみんなにも、迷惑をかけたくない。それで少しずつ、整理を始めているのですが、時間が足りませんね。ガーデニングも好きだし、料理も好きだし、3人の孫の成長も見ていたい。がんばっている役者や映画人、演劇人を応援したいし、私自身が演技に関わっていたい。皆とドラマを作り上げたい。きっと、時間を惜しんで、あれこれ動き続けるのでしょうね」

──奈良橋さんの周囲は人で溢れています。

「考えてみると、父の影響かもしれませんね。外交官という仕事柄もあったのでしょうが、わが家はいつも、いろいろな国の人が集まってきていました。皆との楽しい時間と笑い声がそこにはありました。亡くなる少し前のことですが、76歳の父の誕生日に家族で集まりました。父ったら、ケーキ登場の場面でおならをしたんです。何と言ったと思います? “ファンファーレだ!”。私も父に倣って最後まで人生を楽しみたいですね」

「このあと、アメリカへの出張が控えているんです」と奈良橋さん。あいにくのぎっくり腰で調子は万全ではなかったが、奈良橋さんはそれでも、自身の歩みを止めない。

奈良橋陽子(ならはし・ようこ)
1947年、千葉県生まれ。アップスアカデミー主宰。ドラマ英会話教室MLS会長。5歳~15歳をカナダで過ごす。国際基督教大学卒業後、米国ニューヨークの演劇学校で学ぶ。帰国後、作詞家としてゴダイゴのヒット曲を手掛ける。演出をした舞台『ウィンズ・オブ・ゴッド』は国連芸術賞を受賞。同作で映画監督も務めた。キャスティングディレクターとして『ラストサムライ』『SAYURI』など多くのハリウッド映画に携わる。

※この記事は『サライ』本誌2023年1月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/角山祥道 撮影/宮地 工)

 

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