加藤登紀子(歌手)
─夫の遺した「鴨川自然王国」で、娘たちと農的暮らしを推進─
「人生の終わりを悟ったら、自分で飛行機のチケットと宿の手配をして旅に出たい」
──来年には80歳です。
「歌う旅に終わりはないと思っているけれど、よくここまで来たわね。歌手として50年あまり。ここ鴨川自然王国が誕生して40年あまり。ファンクラブ向けに『登紀子倶楽部通信』を年3回発行しているのですが、今、88号まで来ました。あと12号で記念すべき100号になります。ということは、少なくともあと4年はがんばらないとね」
──コンサートでは驚きの声量でした。
「今は鍛えていますからね。でも、こうやって歌い続けていることが、今でも信じられません。自分でも歌手であることを不思議に思う。小さい頃は、声が低いことがコンプレックスで、しかも赤面症だったから、人前で歌うなんてもってのほかでした」
──想像がつきません。
「音楽に関してもそう。わが家は音楽が好きな一家で、父はハルビン(旧満州)でロシア音楽にのめり込み、ヴォーカルグループとしてデビュー寸前までいったそうです。しかし徴兵によってその夢が潰えました。家庭を持ってからも音楽熱はすさまじく、姉にヴァイオリンを習わせていました。母も音楽好きで、受験勉強をしていた兄に、“受験生は心の栄養が必要です”と急遽、ピアノを習わせたほどですから。私もピアノを習わされそうになりましたが、天邪鬼の私は断固拒否。“家族の中で私ぐらい、音楽を習わなくてもいいんじゃない?”と言っていました」
──どうして歌に行き着いたのですか。
「今思うと、大きな出来事は、高校の時に音楽の先生から“君はアルトだ!”と言われたことかしら。当時は、女子といえばソプラノが花形で、アルトなんてよくわかっていなかった。でも先生から“それも、かなりいいアルトだ”と言われ、気づかないうちに、自信が芽生えていたのかもしれません。
大学2年の秋に、フランスで最も愛されているシャンソン歌手、エディット・ピアフが亡くなります。その追悼番組をテレビで見ているうちに、すっかりピアフに心酔してしまったんです。自分自身、ピアフそのものだとさえ思ってしまった。そんな時に、父から囁かれたんです。“お前、シャンソンコンクール受けてみたらどうや?”って」
──唐突な提案です。
「第1回日本アマチュアシャンソンコンクールでした。もしかしたら、自分の歌手になりたかった夢を叶えたい、という思いもあったのかもしれません。私はその頃、ピアフになりきっていましたし、優勝者に与えられるヨーロッパ旅行にも目がくらみました。やると決めたら、優勝あるのみです。東京日仏学院に通ってフランス語を習ったり、シャンソンの先生についたり、と準備万端整えました」
──結果を教えてください。
「ピアフの曲を、自信をもって歌いましたが、結果は4位。審査員からは、“子どもにはピアフの歌はまだ早い”と言われました。女心を表現できないという指摘でした。でも“みんな待ってるから、もう一度いらっしゃい”と声をかけられたんです。もしこの時優勝していたら、それで満足して、歌手にならなかったかもしれません。しかしだめだったことで、俄然、心に火が付いたのです。
対策も練りました。有名な曲は、名だたる歌手が歌っていますので、比較されます。審査員も知らないような新しい曲を歌えば、真っ新な状態で審査してもらえるんじゃないか。対策は当たり、2回目で優勝しました。私の歌手人生の始まりです」
──でも一度、引退していますよね。
「夫の藤本(敏夫)のことをお話ししたほうが早いわね。藤本が学生運動で実刑判決を受けたことは、みなさんご存じね? 付き合っていた私は、お腹の中に赤ちゃんができていることを知って、彼の意志を確かめるために、中野刑務所に面会に行きました。そして看守の目の前で、結婚を確認しあったのです。『知床旅情』がヒットして、その年のNHK紅白歌合戦に出たのが、昭和46年のことですから、結婚はその翌年の春になるわね。
不思議ね。結婚した時は、歌手でなくてもいい、と思い詰めて、引退コンサートまで開きました。ところがその1年後には、歌が忘れられなくてステージに復帰します。それ以降、歌は私にはなくてはならないものになってしまいました」
「離婚話をふたりしてサボった。そしたら続いてしまった」
──以来、歌い続けています。
「今でもステージの上から観客に向かって、話しかけることがあるんです。“ごめんね、私は歌うのが嬉しくてしかたないの。私は、自分のために歌っている”って」
──歌手であり、妻であり、母である。
「夫婦としてはどうだったかしら? 彼が刑務所から戻って来た時、娘は1歳9か月でした。このあと、次女、三女にも恵まれ、孫も7人います。きっと外から見ると、幸せな家族ね。でも夫婦生活はけっして一筋縄ではいきませんでした」
──どういうことでしょう。
「先日、女優の大竹しのぶさんとトークライブを行なったのですが、“女には男が3人必要だ”という話題で盛り上がりました。いわく、仕事仲間、恋人、一緒に暮らす人、の3人の男が必要だと。そう考えると、藤本は仕事のパートナーではありませんし、私とは一緒に遊んでくれないから恋人でもない。私も藤本も家を空けることが多いので、一緒に暮らしている時間も短い。結局、私は必要な男を見つけ損なったのね」
──鴨川自然王国を一緒に設立しています。
「鴨川自然王国は、藤本が心血を注いだ自然共生型の農場です。千葉県の鴨川市にある大規模農場で、有機無農薬栽培などを中心に、今でも次女夫婦が中心となって運営しています。立ち上げたのは昭和56年です。ふたりとも37歳でした。その時、藤本が私に何と言ったと思います? “俺と一緒に鴨川に来てくれ”って」
──何と答えたのですか。
「“それはできません”ときっぱり断りました。三女が生まれたばかりで、私の歌手の仕事も軌道に乗っていました。しかし断ったことで、離婚の危機に陥りました」
──離婚、ですか。
「ええ。藤本は“農家に嫁は必需品だぜ”という。同じ船に乗ろうと熱心に誘うのです。でも私にはできませんでした」
──なぜですか。
「一緒に千葉で暮らすことは、歌手活動を制限することでした。私にそれはできなかった。それで、“船はふたつあってもいいんじゃない?”と一方的に宣言して、私と娘の家族4人は東京、藤本だけ千葉、という二元生活を始めることにしました。お休みの日は、子どもたちと訪れ、千葉で暮らしました」
──離婚問題はどう解決したのですか。
「フフフ、サボったの。離婚って面倒でしょ。だからふたりしてサボったんです。そしたら続いちゃった。昭和62年に結婚15周年を迎えた時は、鴨川自然王国で盛大にお祝いしました。離婚はうやむやになりましたが、私自身、この数年後に、どうにもこうにもならなくなります」
──何があったのですか。
「50歳になろうかという頃です。いろいろなことに疲れ果て、金属疲労を起こしてしまいました。自分への肯定感もなくなってしまった。ふと、“いつまで歌手を続けていられるんだろう”と思ったのね。直前に父が他界したことも、考えるきっかけになりました。
そこで、平成4年の秋から1年間、すべてのスケジュールを白紙にしました。今までのマネージメント態勢も解散して、ゼロから再スタートしたんです。その時初めて、ヴォイストレーニングやストレッチなど、さまざまなトレーニングを始めました。新しい自分を一から作り直したかったのかもしれません」
──それまでトレーニングをしなかった。
「ええ、まったく。今思うと笑っちゃうわね。歌手デビューを果たした頃、歌番組でザ・ピーナッツのおふたりと一緒になりました。その時、ふたりが事務所のマネージャーから“腹筋を鍛えるためにいつもお腹を引っ込めていなさい”と言われているのを聞いて“それは人権侵害よ”と憤慨していたくらいですから。彼女たちがヴォイストレーニングやストレッチをしているのを尻目に、私は何もしませんでした。もっと早くから鍛えておけば良かったわね」
「人生の終わりも、予想外のことが起こるという期待感があります」
──50歳が大きな節目だったのですね。
「同じ頃、夫の藤本(敏夫)が糖尿病を患ったんです。自分で調べ尽くさないと納得できない、論理100%の人ですから、糖尿病を調べ上げ、ついには糖尿病患者のネットワーク・全糖連(全国糖尿者連盟)まで結成してしまいました。全国で講演会を開いて回り、私もたびたび、歌を届けました。数年すると肝臓がんが顕在化し、さらに体に気をつかうようになりました。私が50歳という壁にぶつかって乗り越えようとした時、夫もまた、闘いのさなかにあった。そういうことがきっといろいろ重なったのね。藤本は、結婚して30年という節目の年に亡くなりました」
──どんなお気持ちでしたか。
「亡くなる1年前に肝臓がんが判明していました。医師から“もってあと1年”と言われていたので、それなりの覚悟はありました。
その時が来たのは、レコーディング中でした。翌朝、家族が揃ったのを確認すると、“もういいだろう”と自ら酸素マスクを外しました。最期の瞬間を目に焼き付けました。マスコミに向けて『2人の人生はいまからまた別な形で始まると思っています。彼が残した未来への夢を、受け継ぎ、やり遂げたいと思います』というコメントを発表したのですが、この気持ちは今も変わりません。この時、知人からレモンの苗を貰ったのですが、あれから20年。レモンは毎年、多くの実をつけています」
──鴨川自然王国での暮らしは。
「変わらず私は、東京との二元生活です。平成14年に藤本が亡くなってからは、次女のYaeが、夫婦でこの農場を運営してくれています」
──心強いですね。
「藤本が亡くなったのは7月31日なのですが、その絶筆が同年の『現代農業・増刊』8月号〈青年帰農〉特集に掲載されました。藤本はその中で、“21世紀、日本人はすべからく農的生活を送るべきだ”と青年に農業を呼びかけています。今まで田舎はマイナス、都会はプラスだと考えられてきたが、これからはそうじゃない。水、燃料( 薪)、食事を確保している田舎の価値が、今後逆転するという内容でした。この寄稿を読んで、藤本が亡くなった翌年に、脱サラしてまで農場を訪ねてきたのが、今の次女の夫である博正さんなんです。繋がっていくのね。今は、長女一家も同じ集落で暮らしています。といっても広すぎて、車がないと訪ねられないのですが」
──人生の終わりのイメージはありますか。
「私の人生はこれまで、予想の付かないものでした。きっと終わる時も、予想外のことが起こるんだろうという期待感がありますね。娘からは“どうしたいか決めといて”と言われていますが、私は家族に見守られながら、自宅のベッドで死ぬなんて嫌。理想は、終わりを悟ったら、自分で飛行機や宿の手配をして、旅に出たい。“あとに残された身にもなってよ”と娘には不平不満をぶつけられますが、だって見守られて死ぬなんてワクワクしないでしょ? 最後まで私は、好きなように自分の人生を生きたいのです」
加藤登紀子(かとう・ときこ)
昭和18年、ハルビン(旧満州)生まれ。昭和40年、東京大学在学中に第2回日本アマチュアシャンソンコンクールに優勝し歌手デビュー。『知床旅情』(日本レコード大賞歌唱賞)など80枚以上のアルバムと多くのヒット曲を送り出す。私生活では昭和47年、学生運動で実刑判決を受け獄中にいた藤本敏夫と結婚し3人の子をもうける。3枚組ベストアルバム『花物語』が好評発売中。
※この記事は『サライ』本誌2022年6月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/角山祥道 撮影/宮地 工)