【サライ・インタビュー】

井山計一さん
(いやま・けいいち、バーテンダー)

――バーテンダー歴65年、カクテル「雪国」を創作――

「お客さんと話すのが大好き。一日でも長く健康を保ち、カウンターに立ち続けたい」

カウンターの中に立ち、シェーカーを手にすると、自然と背筋が伸びる。下戸ゆえ、カクテルの味と香りは舌で嘗めて記憶するという。

カウンターの中に立ち、シェーカーを手にすると、自然と背筋が伸びる。下戸ゆえ、カクテルの味と香りは舌で嘗めて記憶するという。

※この記事は『サライ』本誌2019年4月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/矢島裕紀彦 撮影/宮地 工)

──自身を描いた映画(※:映画『YUKIGUNI』の上映館は公式サイトhttp://yuki-guni.jp/参照。)が公開中です。

「ちょっと、不思議な気持ちです。撮影は足かけ3年にわたりましたが、私は監督に言われるままカメラの前に立っていただけです。撮影されることに抵抗はありません。普段から、若いバーテンダーの人たちやお客さんから“一緒に写真を撮ってください”とよく言われますから。カメラを向けられると、無意識に笑顔になってしまいます」(笑)

──生まれは山形県の酒田です。

「ここ酒田で、250年ほど前から続く呉服屋に生まれましたが、関東大震災以降は商いが悪くなり、両親は喫茶店や料亭を営んでいました。私は子供の頃からお喋りな子で、戦時中の昭和18年12月、酒田商業学校(現・酒田商業高校)を3か月繰り上げで卒業し、同級生7人と満州(現・中国東北部)にある会社へ就職することが内定していました。ところが、直前になって私だけが校長室に呼ばれ、行ってみると東京芝浦電機(現・東芝)の人事担当者がいました。いくつか質問をされたあと、“来年の1月2日から出社してください”とその場で申し渡されたのです」

──突然の進路変更ですね。

「そんな希望は出していませんし、寝耳に水で、何が何だかわからない。その頃、酒田商業の卒業生で、東京の大企業に就職した人間なんて、いませんでしたから。あとでよくよく聞いてみると、親父と仲のいい人の弟が、東芝の人事部の部長さんでした。つまり、親父が仕組んだんですね。でも、お蔭で命拾いしました。満州へ行った仲間は、ほとんど帰ってきませんでしたから。私宛ての召集令状が届いたのは、終戦の2日後でした」

──そこでも命拾いをした。

「終戦まもない昭和20年9月、アメリカの進駐軍が酒田へやって来ました。すると、叔父が若い兵隊さんたちの遊び場として、ダンスホールを始めたんです。酒田に戻っていた私は、そこへ遊びに行き、社交ダンスに魅せられてしまいまして。東京へ行って本格的な修業を積み、酒田でプロのダンサーとして指導を始めたのが昭和23年、22歳の頃でした」

──結婚はその頃ですか。

「翌年、ダンス教室の生徒だった女房と結婚しましたが、結婚を決めたのは、じつはお袋なんです。お袋が勝手に、向こうの実家と話をまとめてしまった。それで突然、“何月何日に結婚式だから準備しといて”と言われ、驚いて“俺は、誰と結婚するの?”と聞くと、“菊池キミ子だよ、おまえの好きなのはあの娘だろ?”って。思わず“はい、そうです”と答えました。見抜かれていたんです」(笑)

──バーテンダーに転身したきっかけは。

「プロのダンサーを諦めなきゃいけなくなったからです。社交ダンスは、競技会へ出場するにも、指導で実践してみせるにも、パートナー(相手)が必要です。ところが、私のパートナーだった女性が、駆け落ちをしていなくなってしまった。女房にダンスを教えればどうにかなるとも思いましたが、ワルツやタンゴのリズムは取れても、ラテンのリズムがどうしても取れない。お袋からも“商売替えするしかない。仙台か、東京にでも行って、何かいい商売はないか、ちょっと探してみたらどうだい”と勧められました。

それで、仙台の友達のところに1泊し、次の日に繁華街をぶらぶら歩いていたら、電柱にバーテンダー見習い募集という広告がありました。グランドキャバレーの新装開店で、バーテンダーの見習いを5名、ボーイ25名を募集していたのです」

──それに応募したのですね。

「じつは、私は酒を飲めないんですが“当たって砕けろ”と思い会場に行ってみると、応募者が百数十人も来てるんです。それも、20代の若い人たちばかり。“こりゃ、駄目だ”と思っていたら採用がふたり増え、7人目のバーテンダー見習いとして入れたんです」

──それは、なぜでしたか。

「あとで、支配人に理由を聞いてみました。そしたら、若い連中が30人もいれば必ず揉め事が起こる。それを収めるには、ひとりぐらい年かさの、若い人を指導できるような人物が必要だということになったそうです。それで、もう一度応募者を見直したら、ちょうどいいのがいた。それが、私だというのです。私は27歳でしたが、髪の毛が少なかったためか30代後半に見えたそうです(笑)。それに、それまでプロとしてダンス教室で教えていましたからね、喋り方もしっかりしてたというんです」

──バーテンダー人生の始まりです。

「始めてみたら、これが面白い。当時、日本にはカクテルのレシピ(作り方)をまとめた本などありません。あるのは、イギリスで出版された英語の文章だけで、写真も載っていない『サヴォイ カクテルブック』くらいです。私はチーフ・バーテンダーの仕事を横で見ながらカクテルの作り方をメモすると、それを英単語帳のカードに整理していきました。“バーテンダーは習うより盗めだ、盗むことは恥じゃない”とチーフにも教えられましたからね。休みの日には他の店にも行き、いろいろと教えてもらいました。

また、チーフから“バーテンダーというのは話題をいっぱいもってないと駄目だ”とも言われました。“新聞や週刊誌を読み、本屋へ行って、勉強しないとつまんない商売になっちゃうよ”と。ですから、私はいまも、お客さんと話をするのが楽しくてしょうがない」

バーテンダーとしてひとり立ちした頃の井山さん。日本語のカクテルブックもない時代に、先輩たちの仕事を見てカクテルの作り方を覚えたという。昭和30年、30歳の頃。

バーテンダーとしてひとり立ちした頃の井山さん。日本語のカクテルブックもない時代に、先輩たちの仕事を見てカクテルの作り方を覚えたという。昭和30年、30歳の頃。

「女房には本当に苦労をかけた。思い出すといまでも涙が出ます」

──仙台には奥さんも一緒に行ったのですか。

「最初はひとりで暮らしていたんです。4歳と2歳の子供がいましたし、お袋が“自分が面倒を見るよ”って言ってくれましたから。でも、半年もしないうちに“子供たちがお父ちゃんの傍がいいって言ってる”と女房から電話がかかってきましてね。それからは、仙台で4人で暮らすようになりました。

そのうち、女房がホステスさんたちのドレスを作り始めたんです。ふつう、ドレスを店に注文すると1着2、3万円かかります。それが、女房に頼むと6000円で出来上がる。女房は洋裁学校を出ていて、ドレスのデザインを自分で考えられました。布地も一緒に選び、材料費が3000円、工賃が3000円の合わせて6000円でできたからホステスさんたちは大喜びです。200人くらいから次々と注文が入り、大忙しでした」

──当時の3000円は大金ですね。

「バーテンダーの月給が、だいたい3000円でした。女房はそれを1週間で稼いでしまった。ところが、ある日、女房が突然“目が見えない”と言い出した。慌てて医者へ連れていくと、栄養失調と診断されました。どうしてだろうと思ったら、子供たちに言われました。“母ちゃんは、食べる時間も、寝る間も惜しんでずっとミシン踏んでるよ”って」

──寝食を忘れて仕事をしていた。

「お金が稼げること以上に、“お父ちゃんのために働いてる”という気持ちが強く、一心不乱に、ずっとミシンを踏み続けていたというんです。私は、深夜に帰宅し、疲れているからすぐに寝てしまってまったく気がつかなかった。本当に苦労をかけたと思い、いまでも思い出すと涙が出てしまう。きちんと栄養を摂るようにしたら、じきに回復しました」

──仙台で技能を身につけたあとは。

「その後は福島の駅前のキャバレーで、マネージャー兼バーテンダーとして働きました。それから郡山の店にも少しいて、昭和30年10月に酒田へ戻りました。工務店をやっていた叔父に相談し、実家の敷地の一角に『ケルン』をオープンしたのは、忘れもしないその年の12月10日でした。カウンターが10席、窓際のテーブル席が4席、合わせて14人しか入れない小さな店でしたが、とにかく繁盛しました。夕方の5時にオープンすると、すぐ満席。店の外に行列ができました。注文はたいていウイスキーのハイボールかロックで、ひと晩にボトル10本分くらい売れました」

──カクテル「雪国」を創作した経緯は。

「店の経営は順調で、昭和32年に県内のあつみ温泉にも支店を出したんです。その頃には、弟子もいて、バーテンダーが5人いました。『雪国』はその支店で生まれました。弟子のひとりが全国カクテル・コンクールの応募ハガキを持っていて、あるとき“マスター、これに応募するならそろそろ出さないと”と言うので“そうか、じゃあやろうか”と」

──その場ですぐ創作にとりかかった。

「当時は、カクテルの材料になるお酒がいまほど豊富にありません。せいぜい10種類くらいです。その中から面白そうなものとして、ウオッカとライム風味のライム・コーディアル、リキュールのホワイト・キュラソーを選ぶと、配分を決めていきました。そしてグラスの縁に砂糖をつけるスノースタイルにし、ミントチェリーも使うことにしました」

「雪国」は世界の『カクテル・ブック』にも掲載される代表的なカクテルとして定着。井山さん自身のつくる「雪国」は、時代の変遷の中で、微妙に作り方を変えているという。

「雪国」は世界の『カクテル・ブック』にも掲載される代表的なカクテルとして定着。井山さん自身のつくる「雪国」は、時代の変遷の中で、微妙に作り方を変えているという。

経営する『ケルン』(※山形県酒田市中町2-4-2019 電話:0234・23・0128 営業時間:19時~22時30分 定休日:月曜、火曜)で注文のカクテルを提供しながら、カウンター越しに和やかな会話が弾む。多趣味で、話題も豊富な92歳だ。

経営する『ケルン』(※山形県酒田市中町2-4-2019 電話:0234・23・0128 営業時間:19時~22時30分 定休日:月曜、火曜)で注文のカクテルを提供しながら、カウンター越しに和やかな会話が弾む。多趣味で、話題も豊富な92歳だ。

近くの日和山公園を散策する井山さん。最上川を指し示しながら、松尾芭蕉の『奥の細道』の旅程を説明する。かつてはこの高台から、北前船の船乗りたちが出港前の日和を確かめたという。

近くの日和山公園を散策する井山さん。最上川を指し示しながら、松尾芭蕉の『奥の細道』の旅程を説明する。かつてはこの高台から、北前船の船乗りたちが出港前の日和を確かめたという。

「酒田大火を機に、夫婦ふたりきりで気兼ねなく店をやることにしました」

──ミントチェリーはまだ珍しかったのでは。

「郡山の店にいたとき、たまたま農家の人が売りにきたんです。ナポレオンという種類の黄色いサクランボが、そのままだと酸っぱいので、ペパーミントに漬け込んで瓶詰めにしてみたそうです。食べてみたら美味しかったので買い求め、ずっと持っていたんです。市販品として普及するのは、しばらくあとのことです」

──そのカクテルがグランプリに輝いた。

「東北の地区予選を3位で通過し、東京の本大会に臨みました。全国から2万4000の応募があったそうです。本大会の会場で発表を待っていると、東北地区で1位と2位だったカクテルが銅賞と銀賞に入り、残るは金賞とグランプリになりました。“東北で3位だった俺の受賞はないな〟と諦め、バーコート(バーテンダーの制服)から平服に着替えました。そしたら、グランプリは東北代表の『雪国』と発表され、慌てて壇上に上がりました。ですから、記念に撮ってもらった写真では皆がバーコートを着ているのに、私だけ服装が違う妙なことになってしまいました」(笑)

──「雪国」はいまも飲み続けられています。

「最初は、あまり注文がなかったんです。お客さんと話をしているうちに、“そんなカクテルがあるなら、飲んでみようか”と注文がある程度。それが、英字新聞のデイリーヨミウリに紹介されてから少しずつ火がついて、『雪国』を目当てに遠方からもお客さんが来るようになりました。いまでは、8割方は県外からのお客さんです」

──酒田では昭和51年に大火がありました。

「その頃には店をビルに建て替えていましたが、そのビルにも火の手が迫り、隣も焼け落ちましたが、奇跡的に被害は免れました。ところが、再開発計画で店の場所に道路を通すことになり、やむなくいまの場所へ引っ越したんです。そのとき、10数人いた従業員は他の働き場所を紹介し、女房とふたりで店をやることにしました。“ふたりだけのほうが、気持ちよく働ける”って女房が言うもんでね」

──その奥様も亡くなられました。

「この5月で、3年になります。亡くなる1年ほど前から認知症になりましてね。でも、最初はそれがわからなかったんです。私が外へ出かけると、追いかけるように外へ出てくるようになり、そんなことから徘徊が始まって、あるとき、墓の近くで倒れていた。危ないので店の3階にある自宅にいるように言い、鍵をかけとくんだけど壊して出てきちゃう。仕方なく、専門の施設に預けました。そこでは、施設で使うタオルをいつも綺麗に畳んでました。店で仕事をしているような気持ちだったんでしょうね。亡くなる1週間くらい前は、病室に家族が集まり、昔行った旅行の話なんかするとニコッと笑ってね。それがだんだんと反応がなくなり、消えるように息を引き取りました。“こんな死に方、いいな”って、娘と話をしました」

──自身の最期と向き合う気持ちは。

「考えていた以上に生きましたから、死ぬことは何とも思いません。いまの楽しみは、温泉と足ツボマッサージと豚カツを食べること(笑)。この先は一日でも長く健康を保ち、1週間に2日か3日、店でお客さんを迎え続けたい。ご来店をお待ちしております」

この日は湯野浜温泉の旅館『いさごや』の湯に浸かり、ゆったりと寛ぐ。「じつはこの湯野浜へ行く列車の中で、まだ女学生だった女房と初めて出会ったんですよ」

この日は湯野浜温泉の旅館『いさごや』の湯に浸かり、ゆったりと寛ぐ。「じつはこの湯野浜へ行く列車の中で、まだ女学生だった女房と初めて出会ったんですよ」

井山計一(いやま・けいいち)大正15年、山形県生まれ。酒田の老舗呉服店の長男。戦後、ダンス教師を経て、27歳でバーテンダーの修業を始める。昭和30年、帰郷してバー『ケルン』を開く。昭和34年、創作カクテル「雪国」で全国カクテル・コンクールのグランプリ受賞。その後もシェーカーを振りながらバーを経営、プチシャトー」「ボサノヴァ・デイジー」「青いリンゴ」など、数々のオリジナル・カクテルを生む。

※この記事は『サライ』本誌2019年4月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/矢島裕紀彦 撮影/宮地 工

 

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