はじめに-運慶とはどんな人物だったのか

運慶(うんけい)は、平安末期から鎌倉初期にかけて活躍した仏師です。東大寺南大門の金剛力士像などの作品を手掛け、その豪放な力強さと写実性から、鎌倉新様式を築きました。

NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、日本中世に輝く天才芸術家で、北条家のため珠玉の仏像の数々を生み出す人物(演:相島一之)として描かれます。

目次
はじめに-運慶とはどんな人物だったのか
運慶が生きた時代
運慶の足跡と主な出来事
まとめ

運慶が生きた時代

運慶が生きたのは、平安時代末期から鎌倉時代になります。12世紀半ばから13世紀は、貴族中心の社会から武士が政権を握る社会へと移り変わる、大きな時代の転換期です。その中で運慶は、戦乱で荒廃した奈良諸大寺の復興や造仏に尽力した人物として知られています。

運慶の足跡と主な出来事

運慶は、生年不詳で、没年は貞応2年(1223)とされています。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。

「慶派」の家に生まれる

運慶は、仏師の一派である「慶派(けいは)」に属する、康慶(こうけい)の子として生まれます。12世紀後半期は、京都に根拠を置く院派(いんぱ)・円派(えんぱ)が貴族の信任を得て勢力を誇り、奈良に中心を置く慶派は振るいませんでした。しかし、運慶の代には関東武士の間に活躍の場を求め、その情勢を逆転させるに至ります。

運慶が最初に作品を完成させたのは25歳ごろ、安元2年(1176)に父の指導下に造った奈良・円成寺の「大日如来像(だいにちにょらいぞう)」だとされています。

関東武士との結びつき

治承4年(1180)には、打倒平氏のため、源氏一門が各地で挙兵。世の中は、源平合戦の動乱期へ突入していきます。そんな中、平重衡(しげひら)が東大寺と興福寺に火を放ったため、そのほとんどが焼失。運慶は、父・康慶と一門の仏師たちとともに、寺の復興に尽力することになります。

さらに、運慶の活動は奈良にとどまらず、文治2年(1186)には北条時政の依頼で、伊豆・願成就院(がんじょうじゅいん)の仏像を制作します。ここから、鎌倉幕府との強い関係を結び、活躍の場を東国まで広げていったことがうかがえます。

慶派と関東武士とのこの結びつきは、院派・円派が京都の旧権力者に重く用いられていたため、これに反発する東国勢力が慶派を用いたこと、また、慶派の新鮮な力強い彫刻表現に力への憧憬の念をもつ東国武士たちが共感をいだいたことによると考えられています。

東大寺・興福寺の復興を手掛ける

建仁3年(1203)には、現存する「東大寺金剛力士像」を快慶(かいけい、康慶の弟子)らと完成させます。23年前の焼失から続けられた東大寺復興の総仕上げとして完成したのが、南大門と金剛力士像でした。寄木造の大作で、阿形・吽形二体それぞれに約3千点もの木製部材が用いられ、緻密な表現で、筋骨隆々とした力強さに満ちています。

この際、作業は20人の仏師による分業体制がとられ、約70日間で8mを超す巨像の制作に成功したのでした。その後の東大寺総供養に際して、運慶は仏師としての僧綱位(そうごうい)の最高位である法印(ほういん)に叙されています。

承元2年(1208)より建暦2年(1212)までは、一門を率いて興福寺北円堂の諸像を造ります。その後、運慶は主として鎌倉幕府関係の造仏に終始し、建保6年(1218)には北条義時の依頼で像を、また、承久元年(1219)には頼朝の菩提のための像などを制作しました。

現存する作品

運慶の制作は造仏の盛んだった当時でも例のないほど多く、実力もさることながら、人気のほどが察せられます。約60年にわたる仏師としての生涯における作品は、多くの文献上で記録されています。

しかし、運慶の確実な遺品として現存するのは、奈良・円成寺の「大日如来像」、静岡・願成就院の「阿弥陀如来・不動・毘沙門天像」、神奈川・浄楽寺の「阿弥陀三尊・不動・毘沙門天像」、高野山不動堂の「八大童子像」、奈良・興福寺北円堂の「弥勒・無著(むじゃく)・世親(せしん)像」、快慶と合作の東大寺の「金剛力士像」の10体前後にすぎません。

作風

運慶の作風は、父・康慶に見られた写実主義的傾向をさらに推し進めたものです。平安末期に流行していたのが貴族趣味的な像であるのに対し、運慶のものは男性的な風貌・堂々たる体軀・複雑で彫の深い衣文・自由な動きを持つ姿態などに特色が見られます。これまでの流派に対する意識的な反抗は、平安王朝文化の否定という、当時の一般的な文化現象にも通じているといえるでしょう。

そして、奈良の地で天平以来の彫刻の古典を学んだ運慶は、古典を総合し基礎を固めたのでした。彼の作品は、当時の武士階級に喜ばれ、幕府をはじめ、諸豪族の注文も多かった、と伝えられています。

晩年とその後の慶派

晩年には自ら「地蔵十輪院(じぞうじゅうりんいん)」という寺院を建て、一門の子弟と共に多くの造仏をしました。いま京都・六波羅蜜寺に伝わる「地蔵菩薩座像」はその本尊といわれています。没年は、貞応2年(1223)12月11日、75歳前後で亡くなったと推察されます。

運慶には湛慶、康運、康弁、康勝、運賀、運助の6人の子息があったといわれ、多くのすぐれた子弟を育てました。彼らは運慶のあとも引き続いて活躍したため、鎌倉時代前半の彫刻界は運慶中心の慶派の時代でもあったのでした。彼の作風は、関東の彫刻にも大きな足跡を残し、いわゆる鎌倉地方様式も、この運慶様を基としています。運慶は、規範として、長く日本の彫刻に影響を与えたといえるでしょう。

まとめ

優れた手腕によって仏師としての地位を高めるとともに、鎌倉時代彫刻様式の根幹を形づくった「運慶」。今も残されるその力強い作品から、彼の魂を感じ取ることができます。動乱の世の中で活躍した運慶を知ることで、“鎌倉”という時代をより深く理解することができるのではないでしょうか。

文/トヨダリコ(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
アニメーション/鈴木菜々絵(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)

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