はじめに-中原親能とはどんな人物だったのか

中原親能(なかはらのちかよし)は、鎌倉初期の幕臣です。源頼朝の側近として仕え、その執政を補佐しました。また、政所公事奉行・京都守護などを歴任し、朝廷との交渉に当たった人物でもあります。

NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、“十三人”の一人であり、京都外交を担った有能な文士(演:川島潤哉)として描かれます。

目次
はじめにー中原親能とはどんな人物だったのか
中原親能が生きた時代
中原親能の足跡と主な出来事
まとめ

中原親能が生きた時代

中原親能が生きた平安後期から鎌倉時代は、武士・貴族・天皇・上皇の勢力が複雑に入り乱れた時代でした。その中で源平の戦いに勝利し、武士として時代を切り開いていった頼朝の側近として、朝廷と幕府を繋ぐ役割を務めたのが親能でした。

中原親能の足跡と主な出来事

中原親能は、康治2年(1143)に生まれ、承元2年(1208)に没しています。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。

下級官人・中原広季の子となる

中原親能の出自については不明な点が多くありますが、その出生年は康治2年(1143)であったとされています。また、父親については諸説あり、系図集である『尊卑分脈』では下級官人である中原広季(ひろすえ)の子で、大江広元の義理の兄にあたるとされています。

一方『大友家文書録』という文書では、実父は後白河法皇の近臣を務めた参議・藤原光能(みつよし)でしたが、母が中原広季の娘であったので、外祖父である中原広季の養子となり、中原氏を称することになったとされています。幼少の頃、親能は相模国(=現在の神奈川県)で育てられました。

京を去り、鎌倉へ

公家・九条兼実(かねざね)の日記『玉葉』によれば、親能は成人して相良国から京都に戻ると、中納言・源雅頼(まさより)に仕えていました。また、その子・兼忠(かねただ)の乳母の夫になったことがわかります。

この頃までに中原親能は、「平治の乱」で平氏に敗れ、伊豆国(=現在の静岡県伊豆半島)にて流刑の身となっていた源頼朝と何らかの形で親交があったと伝えられています。その後の親能の動きは、頼朝の挙兵を知ったことで、京都を脱出して関東に下り、頼朝の側近として政権樹立に参画した、とする説が有力です。

当時の朝廷は世襲社会であり、親が大臣なら子も大臣というのが普通でした。しかし、親と同等の官職に就けるのは後継者のみでした。身分の低い母から生まれた子は、まず跡取り候補にすらならないため、自分で食い扶持を見つけなければなりません。親能もそうした一人であったと考えられ、そのため京に見切りをつけて、鎌倉に下ったとされます。

頼朝の側近として活躍する

親能の頼朝の側近としての活躍は、京都貴族である源雅頼に書状を送り、頼朝の使節として上洛することを述べたことでした。その後、寿永2年(1183)11月には、頼朝の代官として源義経とともに上洛し、対公家の交渉において活躍しています。

さらに、京都に滞在して武将・土肥実平(どひさねひら)と平氏追討の謀議をめぐらし、元暦元年(1184)2月には後白河法皇の使いとして頼朝に上洛を促すために鎌倉に下向しています。また、同年4月には平家追討の頼朝の命を伝えるため再度使節として上洛するなど、東奔西走の活躍をしています。

さらに、文官としての才が認められ、公文所の寄人の一員となりました。しかし、彼が幕府に貢献したのは、文官としてだけではありません。源平内乱時には源範頼に従って平氏追討のため各地を転戦しており、範頼の参謀役を果たしています。文治5年(1189)の奥州征討に際しても、現地に赴いて戦後処理にあたっています。

政権の中枢を担う

その後鎌倉に帰り、頼朝の側近として政権中枢にあって重用されており、建久2年(1191)には公事奉行人に任じられました。京都貴族・源雅頼の家人でもある親能は公家の情勢に通じていたため、公家との折衝や、京都と鎌倉との連絡にあたったのでした。京都における幕府代表を務め、その活躍から「京都守護」の呼称が与えられています。

親能は幕政の行政面と軍事面、その両方を補佐することで活躍していました。正治元年(1199)に源頼朝が逝去。その跡を継いで2代将軍となった源頼家による専制政治を抑えるために「十三人の合議制」が敷かれると、親能はその一員として参加しています。

出家後も交渉役として活躍

正治元年(1199)6月、頼朝の娘・三幡(さんまん)が死去したのを機に、親能はその乳母の夫であったことから出家し、以後「寂忍」(じゃくにん)と称しました。

親能の邸宅は鎌倉の亀谷(かめがやつ)にあったとされています。彼はこの鎌倉の屋敷に住み、朝廷と幕府間の折衝役として忙しい日々を送っていました。しかし、承元2年(1208)12月18日京都滞在中に66歳で没したのでした。

九州地方との関係について

親能には、武将・天野遠景(あまのとおかげ)の後任として九州統轄のため設置された「鎮西奉行」(ちんぜいぶぎょう)に就任したとする説や、豊後(=現在の大分県)・筑後国(=現在の福岡県西部)の守護職などに補任されていたとする説がありますが、いずれも確証はありません。

ただ、豊後国や筑前国などに多くの荘園を得ていた中原親能は、鎮西に特殊権限を有していたことは認められます。これら鎮西の所領所職は、親能から子の中原季時(すえとき)、養子の大友能直(よしなお)に譲られており、大友氏が豊後国に有した所領や所職は親能から譲られたものとされています。

まとめ

文官として目を見張るほどの才能があっただけではなく、武人としての一面も持ち合わせていた中原親能。京下りの官人としての経験を活かし、朝廷と幕府との間の交渉役として活躍しました。そんな彼もまた、鎌倉幕府の草創期を支えた重要人物の一人といえるのではないでしょうか。

文/豊田莉子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
アニメーション/鈴木菜々絵(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com
Facebook:https://www.facebook.com/kyotomedialine/

引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)

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