はじめに-朝廷に関わる人物

源平合戦、そして鎌倉幕府では、武士らの活躍が目立ちますが、その影には常に「朝廷」の存在がありました。この時代は権力を巡って、武士・貴族・天皇・上皇の勢力が複雑に入り乱れていたのです。では、日本初の武家政権の成立時、朝廷に関わる人物はどのような生涯を送ったのでしょうか。今回は、朝廷の実力者・土御門通親(つちみかどみちちか)、京都守護・平賀朝雅(ひらがともまさ)といった朝廷に関わる人物を紹介していきます。

目次
はじめに-朝廷に関わる人物
各人物の紹介
まとめ

各人物の紹介

ここからは、土御門通親と平賀朝雅、それぞれを取り上げ紹介していきます。

土御門通親

土御門通親は、平安末~鎌倉前期の宮廷政治家です。源頼朝と手を結ぶ関白・九条兼実(かねざね)を退け、権力を握って鎌倉幕府に対抗しました。NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、朝廷の実力者(演:関智一)として描かれます。

通親の本名は「源通親」と言い、村上源氏である源雅通(まさみち)の長子として久安5年(1149)に誕生します。

はじめは花山院忠雅(かざんいんただまさ)の娘を妻としていましたが、承安元年(1171)には、平教盛(のりもり)の娘との間に次子をもうけています。このことから、全盛期の平氏の後援を頼んで政界に進出したといえます。また、通親は高倉天皇の近臣として重んぜられたことでも知られています。

しかし、平氏の都落ちに際しては、後鳥羽天皇の乳母・高倉範子(はんし)を室に迎えるなどして政治的立場の更新をはかります。こうして平氏を離れると後白河法皇のもとにとどまり、その近臣としてしだいに勢力を得たのでした。

ただ、通親の朝務に対する献身と手腕は優れたもので、文治元年(1185)には源頼朝の申請により議奏公卿(ぎそうくぎょう)に選任、その後、頼朝の長女・大姫の入内工作を依頼されるなど、関東の信任をも得ました。さらに、後白河法皇の没後は法皇の寵姫だった丹後局と結託して勢力の温存に努め、建久6年(1195)範子の連れ子が後鳥羽天皇の子を出産すると、通親はこの皇子を養育します。そして翌年、近衛家を擁して政敵である九条家を失脚させ、事実上政権を独占する勢いを示したのでした(=「建久7年の政変」)。

建久9年(1198)、その子・為仁(ためひと)が「土御門天皇」として即位したことで、通親は外戚として朝廷政治を掌握しました。正治元年(1199)正月の頼朝の死による動揺期を捉え、京都政界における残余の親幕派勢力を一掃。その後内大臣に進んで、鎌倉時代の土御門家繁栄の基を築きました。その権勢は世に「源博陸(はくりく)」(=関白の意味)と称せられたほどだったとされます。

しかし、晩年は後鳥羽上皇の政治的成長によって、掣肘(せいちゅう)を受けることも多かったようです。その後、建仁2年(1202)10月、54歳で急死したことで一生を終えました。通親は和歌・文章に優れ、『高倉院升遐記(しょうかき)』や『高倉院御幸記』の和文の著があり、後鳥羽上皇の近臣・源家長(いえなが)の『家長日記』では彼を特に歌人として高く評価しています。

平賀朝雅

平賀朝雅は京都守護を務めた、鎌倉前期の武将です。NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、時政とりく(牧の方)の女婿(演:山中崇)として描かれます。

朝雅の父は、源頼朝に仕えた平賀義信(よしのぶ)、母は源頼朝の乳母・比企尼(ひきのあま)の三女です。朝雅は頼朝の猶子(=実親子ではない二者が親子関係を結んだときの子)にあたります。また、執権である北条時政の後妻・牧の方の女婿ともなりました。このように源氏および北条氏との密接な縁戚関係を持った朝雅は、武蔵守や右衛門権佐(うえもんのごんのすけ)を歴任します。

建仁3年(1203)9月には、比企能員(よしかず)が将軍・源頼家に訴え、北条氏を倒そうとする「比企氏の乱」が起こりました。朝雅は比企・北条双方と縁戚関係にありましたが、北条側について、義時とともに比企邸を攻めたのでした。そして、比企氏の滅亡および頼家の幽閉の後、朝雅は京都守護に任じられ、上洛します。

翌年の元久元年(1204)には、伊賀・伊勢に残った平氏残党である富田基度(もとのり)・平盛時(もりとき)らが反乱を起こした「三日平氏の乱」が起こります。これを平定した朝雅は、勲功賞として伊賀・伊勢両国の守護職に任じられました。

その後、在京中の畠山重忠の子・重保(しげやす)と口論になり、怒った朝雅は義母・牧の方に讒言をし、北条時政を動かします。このことが原因となり、元久2年(1205)6月に畠山一族は北条時政の命により滅ぼされました(=「畠山重忠の乱」)。しかし、この事件の処理をめぐって、時政と政子・義時の間には隔絶が生じてしまいます。

乱の2か月後、牧の方が将軍・源実朝を亡きものにして、朝雅を将軍に据えようと企てていることが発覚。これにより、畠山重忠誅殺事件に批判的であった北条義時や政子が時政邸にいた実朝を義時邸に招いて保護し、多くの御家人も時政の召集に応じなかったため、この陰謀は失敗しました(=「牧氏の変」)。これにより、北条時政は義時に執権を譲り、伊豆国へ出家したのでした。

執権となった義時は、五条有範(ありのり)・後藤基清(もときよ)・安達親長(ちかなが)ら在京御家人に命じ、京都にいた朝雅を討たせます。朝雅は敗走しましたが、山内通基(みちもと)によって射殺されました。ちなみに通基は「三日平氏の乱」の時、伊賀・伊勢両国守護であり、その責任を問われ、守護職を追われた山内首藤経俊(やまのうちすどうつねとし)の子であったといいます。

まとめ

優れた手腕により、権力者から信頼を得て、朝廷の実力者となった土御門通親。そして、京都守護として活躍したものの、縁戚関係にある北条時政・牧の方の陰謀が原因で誅された平賀朝雅。朝廷に関わった人物はいずれも、時の権力者との強い繋がりがありました。武家政権の成立によって朝廷の在り方も変化していきます。そうした移り変わりに目を向けてみても、面白いのではないでしょうか。

文/トヨダリコ(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
アニメーション/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)

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