信長が善照寺砦に入ったのをみて、織田方の佐々隼人正と千秋季忠(せんしゅう・すえただ)が今川方に反撃を試みるが、討ち死にする。千秋季忠は熱田神宮の大宮司で、父・季光は、織田信秀と斎藤利政(道三)が戦った加納口の戦いで討ち死にしている。『麒麟がくる』第2話でその場面が描かれていたのでご存知の方も多いだろう。

このように多くの犠牲を払った織田勢だが、今川陣営は序盤の勝利に気をよくして〈心地はよしと悦んで、緩々(ゆるゆる)として謡をうたわせ陣を居(すえ)られ候〉(『信長公記』)と、緩みが出た。

信長の猛攻が今川方の気の緩みを確認したうえでのものだったかどうかはわからない。だが、『信長公記』によると、その後、戦場は豪雨に見舞われる。晴れ間が見えた段階で、信長は、槍を手に取り大声を張り上げて「それ、かかれ、かかれ」と号令を発したという。

人数的には劣勢の信長勢は、総大将信長の号令に奮い立ったのか、今川勢に猛攻をかける。今川義元は漆塗りの輿をそのままに退却を始める。当初は300の旗本勢が義元のまわりを固めていたが、やがて50騎ばかりになった。

信長は馬から降り、自ら若武者らと攻め立てた。この段の『信長公記』の描写が〈乱れかかって、しのぎを削り、鍔(つば)をわり、火花をちらし、火焔(かえん)をふらす〉と激烈に表現している。

こうした猛攻の末、毛利新介が義元の首を奪うのである。

『信長公記』の記述に沿って桶狭間の合戦を概観した。総大将(信長)自ら陣頭に立ち、軍勢を鼓舞し戦う姿に、小姓ら側近は奮い立ったに違いない。

たったひとりで出陣した信長を追った5人の若武者のその後

では、たったひとりで出陣した信長を追った5人の若武者のその後はどうなったか?

桶狭間の翌年、最後まで信長に反旗を翻していた犬山城の織田信清(『麒麟がくる』第2話で兄・信秀と立ち小便をしていたところを矢で射られた織田信康の嫡男。信長の従兄弟)攻めの戦いで、岩室長門守がこめかみを突かれて討ち死にする。『信長公記』に、信長が岩室の死を嘆いたことが記されている。

残りの4名(加藤弥三郎、佐脇良之、山口飛騨守、長谷川橋介)は信長の側を守り続け、永禄12年(1569)には伊勢の北畠攻めの陣に立っている。だが、その後、同じ信長家臣と諍いを生じたことで信長の勘気を被り、そろって徳川家康のもとに身を寄せたという。

そして――。元亀三年(1573)、武田信玄と徳川家康との一大決戦「三方ヶ原の戦い」で、4名全員討ち死にする。あるいは、三方ヶ原で軍功を得ることで織田家帰参を目論んでいたのかもしれない。

桶狭間の戦いで、出陣する信長を追った5名の若武者は、信長の天下統一の動きを見届けることなく世を去った。さばかりか、信長草創期に側にあった多くの若者が村木砦の戦いや桶狭間の戦いで命を散した。

藤吉郎(後の羽柴秀吉)や明智光秀が信長に仕官し、やがて台頭をあらわすことができたのには、そんな背景があったのである。

今川方の鳴海城を包囲する付城のひとつ、善照寺砦跡(名古屋市緑区)。今川義元の本陣が置かれた桶狭間山を見晴るかすことができるこの砦の下に、信長は兵を集めたといわれる。

今川方の鳴海城を包囲する付城のひとつ、善照寺砦跡(名古屋市緑区)。今川義元の本陣が置かれた桶狭間山を見晴るかすことができるこの砦の下に、信長は兵を集めたといわれる。

文/『サライ』歴史班 一乗谷かおり

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