NHK大河ドラマ『麒麟がくる』では、放映当初から登場していた松永久秀。史実はともかくも、ドラマの中では光秀と久秀は、浅からぬ関係があったかのように描かれています。久秀は、二度にわたり信長に叛旗を翻したという記録が残っています。そうした久秀の行状は、光秀の目にどのように映っていたのか、そして光秀の謀反「本能寺の変」にどのような影響を与えたのでしょうか? 今回は、そうした光秀の心の動きも含め、足跡を辿ってみたいと思います。

大河ドラマの進行とともに、明智光秀ゆかりの地を訪ねることを楽しみにされていた方も多いかと思います。しかし、三度、新型コロナウイルス感染症が拡大する中、遠出を自粛されるという方も少なからずいらっしゃることでしょう。サライ.jpが皆様に代わって動画でレポートをいたします。可能な限り、現地の臨場感をお伝えしますので、お楽しみください。

今回は、光秀が攻略した、大和国(現在の奈良県)にある松永久秀の城・信貴山城趾を訪ねるとともに久秀にまつわる史跡を巡りました。信貴山城は信貴山(しぎさん、標高437m)にあった中世の山城です。東の平群谷(へぐりだに)、南の竜田越(たつたごえ)、北の生駒山十三越からほぼ等距離にあり、大和・河内を制圧する絶好の戦略的位置にあったと推測されます。

松永久秀は多聞山城(たもんやまじょう、現奈良市)とともに本拠をおいて、大和・河内の制圧を目指し、信貴山城を大規模な山城にしたそうです。天守閣を持つ最初の城郭ともいわれ、久秀の高い築城技術を、信長は安土城を築く際に参考にしたともいわれています。

「天空の城」とも呼ばれた信貴山城の姿を見られないのは残念ですが、通称「松永屋敷跡」など多くの遺構が残っておりますので、動画でご覧ください。

『信長公記』には、「鳥獣もたつことのできない険しい高山を、信忠が鹿の角の兜を振り立て攻めのぼった」という記述が残されています。そんな険しい高山の姿も感じていただけるのではないでしょうか。

■なぜ久秀は信長を2度に渡り裏切ったのか?

松永久秀は2度にわたり、織田信長に対し謀反を起こしていますが、その原因については諸説あります。1度目の謀反は、幕府の足利義昭方について武田信玄と呼応する形で兵を起こすも、信玄の病死により失敗。その時は、多聞山城を差し出すことによって、織田信長に許しを乞うたとされています。2度目の謀反では、信長が久秀の宿敵である筒井順慶を大和の守護に抜擢したことが引き金となり謀反を起こすことになったとの見方があります。

いずれにしても、松永久秀による謀反が成功し得なかったことで、後世になって光秀が「本能寺の変」を起こす際、本懐を遂げるための戦略を立案する上で、多いに参考にしたと考えられます。

■“まぼろしの天空城”と呼ばれる、信貴山城

信貴山城跡は、南北約700m、東西550mの規模があり、奈良県では最大級の規模を持つ中世城郭です。築城者は南北朝時代の武将・楠木正成だとする説があり、信貴山中腹にある朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)には、正成の花押と年月日が墨書きされた軍旗が奉納されています。ただ、この頃は小さな砦のようなものであったのではないかと推測されており、本格的な築城は1536年に河内畠山氏の家臣・木沢長政が行ったもの。しかし、三好・細川氏との戦いで敗死し、信貴山城も落城しています。

空鉢堂のある雄嶽からの景色。今も城の姿が残っていれば、間違いなく「天空の城」と呼ばれたであろう。久秀も天守から同じ景色を眺めていたに違いない。

1559年に松永久秀が築城し、南都に築いた多聞山城とともに大和支配の拠点として利用しました。信貴山城は、基本的に土で作られた城郭で、信貴山・雄嶽(おだけ)山頂には天守が建てられたと考えられています。

雄嶽にある鉢巻状の帯郭をもった郭(くるわ、城の外囲いのこと)を中心に,南東から北東・北西方向へ放射状にのびる7条の尾根筋に連続して郭が存在。土塁、門跡、空堀なども遺存しており、中世城郭跡の代表的なものであるといえます。

「信貴山古城図」(江戸時代)に「松永屋敷」の記載がある。尾根を大規模に造成して平坦地を作り、東側に門跡を配すなど、城内での進んだ構造がうかがえる。

1577年、松永久秀は石山本願寺攻めに参加していましたが、織田信長に反旗を翻し、信貴山城に立て籠もります。『信長公記』によると、信長は「存分に思うところを申せば、望みを叶えてやろう」とまで伝えたと言われていますが、久秀は会おうともしなかったそうです。

信長は嫡子・信忠を大将とする軍勢で信貴山城を攻めました。

▷信忠の援軍として、光秀は大和片岡城を攻める

光秀は、信忠を支援するため、細川藤孝、筒井順慶らと共に5千の兵を率いて、久秀の支城である大和片岡城を攻撃。『多聞院日記』には、「片岡城今日セメキリ、ヱヒナ・河人始テ七十ハカリ無残討死了、明智衆モ大勢損了云々」という記録も残されているように、大和片岡城の籠城兵千の抵抗は強く、激しい攻防戦となったようですが、光秀らの活躍により同城は陥落しました。光秀はさまざまに手を尽くし、屈強の者二十余人を討ち死にさせたという記録が『信長公記』に残されています。

俗に「城山」と呼ばれる、大和片岡城。いまは城跡だけが残されている。

光秀は大和片岡城を落としたあと、信貴山城に向かったと言われています。織田信忠、佐久間信盛らの軍勢と合流して、信貴山城を攻撃。最期を悟った久秀は、一説によると信長の欲していた名器「平蜘蛛茶釜」を粉々に砕いた後に自害。落城の様は、『多聞院日記』に「信貴城猛火天ニ耀テ見了」などというように記録が残されています。その後、城は再築されることなく、久秀の死とともに廃城となりました。

『麒麟がくる』では、光秀がまだ若武者だった頃に出会った久秀とは信頼関係があり、戦を望まないというように描かれましたが、果たして史実はどうだったのでしょうか…?

■松永久秀を弔ったのは因縁の相手…、そして菩提寺はかつて自らの兵火で荒廃させた寺

光秀にとってあるときは味方であり、あるときは敵であった、松永久秀。

一癖も二癖も感じさせる久秀は戦国の梟雄と呼ばれ、さまざまな逸話が伝えられています。その一つに、三好三人衆との戦いの中で東大寺大仏殿を久秀が焼いたというものがありますが、三好方の失火・放火説もあり真偽のほどは不明だそうです。

しかし、大仏殿が焼けた日からちょうど10年後の同じ日、10月10日に久秀が自刃したことから、「ひとえに春日明神の天罰に相違ない」と当時の人々は噂をしたと『信長公記』に記録が残されています。

久秀の墓の横には、片岡八郎や久秀に攻略され、後に病死した片岡春利の墓がある。久秀の墓との対比がわかりやすい。

信貴山城で自害した後、久秀の亡骸を葬ったのは、長く争っていた筒井順慶。葬られた場所は、久秀の兵火によって荒廃したことのある達磨寺。これらも何かの因縁なのかもしれません。

こちらは、信貴山麓の三郷町にある松永久秀の供養塔。地元の有志が久秀を顕彰し供養するために建てたもの。「嗚呼義と情そして智謀の人ここに永眠さる」と書かれ大切にされている。

これまで長く逆賊としての汚名を受けてきた明智光秀が見直されているように、悪人として伝えられてきた松永久秀の捉え方も変わってきているようです。これまでの先入観をひとまず置いて、真っさらな気持ちで、大和の地を訪れてみてはいかがでしょうか。

■アクセス情報

「信貴山城」「松永屋敷跡」
住所:奈良県生駒郡平群町信貴山2280-1
・近鉄生駒線「信貴山下駅」よりタクシーまたはバス「信貴山門」降車。
・JR関西本線(大和路線)、または近鉄生駒線「王子駅」下車、バス「信貴山門」降車。
※バス停「信貴山門」からは朝護孫子寺までいずれも徒歩約10分。

「大和片岡城」
住所:奈良県北葛城郡上牧町下牧
JR和歌山線「畠田」下車、徒歩約15分

「五輪の塔・松永弾正顕彰碑」
住所:奈良県生駒郡三郷町立野北1丁目
近鉄「信貴山下駅」から南西へ徒歩約10分

「松永久秀の墓」
住所:奈良県北葛城郡王寺町本町2丁目1番40号 片岡山達磨寺内
近鉄王寺駅・近鉄新王寺駅・JR王寺駅から徒歩約14分

◆信貴山城に並び、松永久秀が構築した多聞山城跡については、「サライFacebook」に公開しておりますので、合わせてご高覧ください → https://www.facebook.com/serai.jp

取材・撮影・動画撮影/末原美裕・貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com
Facebook:https://www.facebook.com/kyotomedialine/

 

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