松永久秀が、最初に信長に反旗を翻したのは、天正5年(1577)8月。信長とその主力家臣たちは、北越の上杉謙信と一戦を構えるべく出陣していた。そのすきに乗じて、久秀は決起し、大和の信貴山城に立て籠もった。

謀反の主たる理由は、天理大学准教授の天野忠幸さんらが提唱したように、同じ大和の領主で、久秀より格下の筒井順慶を信長が重用して、その風下に立たされたことへの不満が 高じたからだ と考えられている。

しかし、上杉謙信の対信長戦争は、足利義昭や大坂の本願寺の動向とリンクしていた。つまり、信長包囲網の戦いだったことになる。当然、久秀の謀反はこの動きに連動しているのだから、久秀も、信長に仕える身でありながら、信長包囲網の一翼を担ったと見做すべきだと、藤田さんは考える。

確かに、すでに天下人として畿内を押さえ、諸大名に命令を下す立場だった信長に対し、久秀が単独で謀反を起こすというのは、向こう見ずにもほどがある。事前に信長包囲網との連携を図るのは当然だろう。

吉田鋼太郎演じる松永久秀がどのように信長に仕え、そして裏切るのか。
『麒麟がくる』後半戦の注目ポイントのひとつだ。

急成長した信長政権が直面した壁

もともとは摂津の国人池田氏の家臣だった荒木村重は、信長の信頼があつく、摂津一国の仕置きを任されるという厚遇を受けていた。しかし、天正5年になると、信長は羽柴秀吉に播磨出陣を命じた。中国地方の毛利氏を攻撃するためだ。

秀吉は、村重の与力とされていた小寺氏の家臣・黒田官兵衛を自らの片腕として抜擢し、いわば摂津の村重の頭越しに、播磨に支配の手を伸ばしていたことになる。

また、大坂の本願寺攻めは、本来であれば直近の摂津国担当者である村重が責任者となるべきであるが、信長は佐久間信盛に本願寺調略を担当させた。これも、村重にとっては屈辱的で、信長の信頼を失ったという恐怖を呼び起こす措置だった。

切羽詰まった村重のもとに、足利義昭側近の小林家孝が接近する。言うまでもない。信長包囲網への勧誘だろう。村重への「説得」は、毛利家家臣などを通じて複数のルートから行われたらしい。

つまり、松永久秀も荒木村重も、謀反にいたった理由は信長に対する不信であり、自らの危機的状況であったが、それが実行されるに至ったのは、信長包囲網との連携があったからだということになる。

藤田さんは、こうした事態を招いたのは、「信長の人事の失敗」と断じている。信長は、急速に勢力を広げたために、現地の有能な実力者を配下に組み入れ、抜擢した。しかし、その後の扱いにおいては、決して公平とは言えなかった。久秀や村重が感じたであろう不公平感や怒り、絶望といった負の感情に、信長が気づくことはなかった。

彼らは面子を潰され、大きく傷つき、さらに将来への不安に駆られた。のちの明智光秀の境遇と、まったく同じではないか。

そして、追いつめられた彼らのもとに、足利義昭の信長包囲網への勧誘の手が伸びる——。

信長は、確かに何度人に裏切られても信じてしまう、お人好しな面があったのかもしれない。しかし、「足利義昭と信長包囲網」という最大の敵を放置したまま、人事の失敗を蹴り返し、その結果、政権の崩壊を招いて自らも命を落としたのならば、それは信長の「性格」の問題ではなく、もはや「政権の限界」が露呈したと考えるべきなのかもしれない。

安田清人/1968年、福島県生まれ。明治大学文学部史学地理学科で日本中世史を専攻。月刊『歴史読本』(新人物往来社)などの編集に携わり、現在は「三猿舎」代表。歴史関連編集・執筆・監修などを手掛けている。

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