『麒麟がくる』後半戦では、将軍足利義輝(演・向井理)が謀殺され、その弟である義昭(演・滝藤賢一)を織田信長(演・染谷将太)が奉じて上洛する。だが、信長と義昭の良好な関係はすぐさま破綻する。その後の義昭は流浪の将軍となるものの、最後まで京都復帰をあきらめてはいなかった。かつて歴史ファンを虜にし、全盛期には10万部を超える発行部数を誇った『歴史読本』(2015年休刊)元編集者で、歴史書籍編集プロダクション「三猿舎」代表を務める安田清人氏が、リポートする。
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——1573(天正元)年には、将軍権力の回復をめざして信長に敵対した義昭を京都から追放して室町幕府を滅ぼし(以下略)
これは、現在使われている日本史教科書(山川出版社『詳説日本史』)のくだりだ。
織田信長は、自ら擁立して将軍の座に着けた足利義昭を追放し、室町幕府は滅亡したという、日本史の「常識」が書かれている。
しかし現在、こうした見解は「やや古い」ものとなりつつある。
元亀4年(1573)4月、信長包囲網の中心的な人物だった武田信玄が死んだ。これを知った信長は、大軍を率いて京に上り、義昭に降伏を迫った。義昭はなすすべもなく信長に降ったが、その直後、義昭は京都の将軍御所から脱出し、幕府奉公衆の真木島昭光が守る槇島城(宇治市)に立て籠もった。
信長はただちに槇島城を包囲して、義昭を屈服させた。義昭は2歳となる嫡男(のちの足利義尋)を人質として差し出し、京を離れた。その後、義昭は枇杷荘、河内若江城、和泉の堺、紀伊の興国寺、田辺の泊城へと放浪を重ね、最終的には毛利輝元を頼り、鞆の浦に身を置くことになる。
一般的には、冒頭の教科書にあるように、天正元年に京を離れた段階を「室町幕府の滅亡」ととらえられている。しかし、歴代朝廷の職員録である『公卿補任』を見る限り、義昭は征夷大将軍を辞してはいないし、剥奪もされていない。義昭が正式に将軍を辞したとは、それから15年も経った天正16年1月13日。太皇太后・皇太后・皇后の三后(三宮)に准じた処遇を与えられる「准三后」となったため、将軍職を解かれたのだ。
となると、形式的には室町幕府は天正16年まで続いていたということになるのだ。
しかも、信長自身、京から追い出したとはいえ、義昭と完全に「手切れ」となるつもりはなかったようで、少なくとも義昭が京を離れた直後は、和睦をしようと本気で思っていたようだ。
信長からの和睦交渉を蹴った足利義昭
信長は、羽柴秀吉を義昭のもとに派遣し、和睦交渉を行なった。大正大学准教授の木下昌規さんは、信長が和睦を進めたのは「将軍と敵対する立場になることで、世間より逆臣とみなされることを気にしていた」ためだったと指摘している(「足利義昭と織田信長の微妙な関係とは?」。『戦国期足利将軍研究の最前線』〈山川出版社〉所収)。
従来の「独裁者」「専制君主」「魔王」といった悪のヒーロー的信長像からすると、まるで別人のようだが、近年の「見直される信長像」の観点からすると、なるほどとうなずける解釈だ。
木下さんによれば、和睦交渉次第では、義昭が京にもどる可能性は十分にあったし、信長もそれを望んでいたという。しかし、交渉は頓挫した。秀吉との交渉の際、義昭は和睦のあかしとして「信長から人質をもらいたい」と要求したのだ。しかも強硬に。
人質というのは、「弱い立場」の人間が、「決して裏切らないと誓うため」に出すもので、幼い日の松平竹千代(のちの徳川家康)が、今川に人質として預けられたことを見ればよくわかるし、義昭自身、いったん信長に降伏した際は嫡男を人質として信長に差し出しているではないか。
しかも、信長包囲網の主力である武田信玄が斃れ、浅井・朝倉氏もすでに滅亡。義昭は圧倒的に弱い立場だったはずだ。もしかすると、中国地方の毛利が義昭に手を差し伸べてくれる明確のプランでもあったのだろうか。
いずれにせよ、足利義昭という人は、端的にいって「空気を読むことができない」人だった。もちろん、これを聞いた秀吉は激怒して和睦交渉を打ち切った。身の置き所を失った義昭は、先に述べたような放浪の生活へと進んでゆく。
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