正親町天皇(演・坂東玉三郎)や誠仁親王(演・加藤清史郎)がキャスティングされた『麒麟がくる』。朝廷と織田信長(演・染谷将太)はどのような関係だったのか?かつて歴史ファンを虜にし、全盛期には10万部を超える発行部数を誇った『歴史読本』(2015年休刊)の元編集者で、歴史書籍編集プロダクション「三猿舎」代表を務める安田清人氏がリポートする。
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一昔前、戦国時代というのは、室町幕府が衰退した間隙を縫って、各地の戦国武将が実力で覇権を争う時代で、天皇や朝廷はすっかり零落し、見る影もない悲惨な状態であったと、一般的にはイメージされていた。
1980年代になると、中世商業史や芸能史などを専門とする脇田晴子さんが、中世後期には、むしろ天皇(朝廷)の権威は浮上していたとする見解を発表するようになり、これを受けた室町時代研究の今谷明さんが、織田信長は新たな「国王」としてこの国を統治しようとしたが、正親町天皇(おおぎまちてんのう)をはじめとする旧来の権威を一掃することができず、むしろ正親町天皇に敗れてついに「国王」なることができなかったと主張し、歴史好きな一般読者の間でもずいぶん話題となった。
つまり、信長は天皇制をあと一歩のところまで追いつめたが、最後の最後で失敗した、ということになる。
ところが、戦前までさかのぼると、信長はむしろ落ちぶれた天皇・朝廷を盛り立てて再興した忠臣として扱われていた。天下統一も、天皇ために国内を統一したという位置づけだった。信長は「勤王家」だったということになる。
戦後、日本の歴史学界は戦前の皇国史観に対する反動から、天皇や朝廷の存在を無視するか、滅びるべき存在だったとみなして思考停止する傾向が強かったと、一般的には理解されている。戦前に「勤王家」として評価された信長は、前述のように、一転して旧来の天皇・朝廷権威への果敢なチャレンジャーとして評価されるようになる。失敗したけれど。
どっちにしても「評価」されるところが、さすが日本史上屈指の人気を誇る信長だが、こうした状況を知ったら、泉下の信長もさぞかし驚くことであろう。
近世史を専門とする共立女子大学教授の堀新さんは、近年、信長と天皇の関係に関する学説やイメージが二転三転してきたのは、「公武対立史観」と「徳川(将軍)史観」が事実をゆがめてきたからだと主張している。
「公武対立史観」とは、非常に大雑把に言えば、武家(政権)と天皇(朝廷)は、常に対立する存在だという認識だ。これは江戸時代の幕末に、徳川幕府を倒した勢力が「勤王」「尊王」を掲げていたという事実を、過去にさかのぼらせて歴史を見る歴史観だと言えるだろう。
【織田信長と公武結合政権。次ページに続きます】