70年代を代表するアイドル・フィンガー5(ファイブ)。圧倒的パフォーマンスで熱狂的な人気を得ていた、沖縄生まれの5人兄妹によるグループだ。1973(昭和48)年のデビューシングル『個人授業』のみならず、『学園天国』『恋のダイヤル6700』とミリオンセラーを連発していた。「人気絶頂期、中学生でしたが、2時間睡眠だったこともありました」と語るのは、フィンガー5の三男・玉元正男さんだ。現在、音楽活動を続けながら、東京都荒川区町屋で飲食店『いちゃりBar』を経営。そこにはかつての衣装やレコードがあり、ファンの聖地になっている。昭和レトロブームも後押しし、客には20〜30代の姿も目立つ。子供時代にアイドルとして人気絶頂を極めた背景、そしてその後の人生について伺った。
占領下の沖縄で、米兵とツイストを踊っていた
正男さんたち5人兄妹が生まれたのは、米国占領下(1945(昭和20)―1972(昭和47)年)の沖縄だ。
「僕が昭和34年(1959)で、一番上の兄・一夫が4歳上、次男・光男が2歳上、四男・晃が2歳下、末っ子の妙子が3歳下で、今年65歳になったばかりの僕は、5人兄妹のちょうど真ん中です。僕の最初の記憶は、米兵に混じってツイストを踊っていたこと。当時、3歳くらいだったと思います」
沖縄県は、太平洋戦争で、唯一戦場になった県だ。戦争の爪痕は深く、両親は悲惨な経験をした世代だったという。
「壮絶な経験をしたからこそ、戦争が終わって、未来の発展に向かって働く喜びを感じていたのでしょう。両親はクリーニング店のほか『Aサイン』のバーを2軒経営していたんですよ。そこには多くの従業員の人たちが働いていました。親は仕事で忙しかったので、親戚や従業員の方が僕たち兄妹の世話を焼いてくれました」
Aサインとは、占領下の沖縄で、米軍の衛生および建築の厳しい基準に適合した飲食店などの施設のみに与えられる免許だ。その条件は、コンクリート造りの建物、タイル貼りのトイレなど物資不足の時代にかなり難しい条件が課されていた。
「父は難しいからこそ“やってやろう”と思う気持ちの持ち主で、沖縄の方言でよく言われる“なんくるないさ”の真実の意味を地で行く人物でした」
“なんくるないさ”は“なるようになる”と解釈されているが、もっと深い意味がある。正男さんは「まくとぅーそーけー(正しいことをしていれば)、なんくるないさ(なんとかなるさ)」だという。
「すべきことを全部行い、だからこそ“何とかなる”なのです。成り行き任せにしたり、易きに流されるのではなく、尽くす手は全て行う……そして、なんくるないさ(何とかなる)です。つまり、“人事を尽くして天命を待つ”と同じ意味なんですね。僕たち兄妹はこのことを両親の背中を見て学んでいたと思います」
終戦後の沖縄で、米兵もやってくるAサインのバーを開くのは、並大抵のことではない。当時、多くの日本人にとって、アメリカは、夢のまた夢、遠い憧れの世界だった。しかし、玉元兄妹にとっては、そうではなかった。
「幼い僕たちは、店の2階で生活をしていましたから、階段を降りればアメリカがあるという環境で育ったんですよね。店には大きなジュークボックスがあり、いくつかのボタンには父の字で“ここ”と書いてある。そこを押すと、僕たちが好む音楽が流れてくる。父が選んでくれたのは、ベンチャーズ、トム・ジョーンズ、ローリングストーンズ、ビーチボーイズなどでした。それに合わせて歌っていると、米兵の人から拍手喝采を浴びました。それがやがて基地での演奏に繋がっていったんです」
最初の芸能活動は、米軍基地内のクラブでの演奏だった。バンド名は『オールブラザーズ』。当初のメンバーは、兄2人と正男さんの3人だったという。
「長男がギター、次男がドラム、僕がベースとボーカルを担当しました。フィンガー5の初代ボーカルは僕なんです。ここにやがて晃と妙子が加わりました。中学生と小学生兄妹のバンドです。当時、米国本土では、兄妹デュオグループ『ジャクソン5』が流行っていたこともあり、どこに行っても歓迎されたことを覚えています」
オールブラザーズは地元では目立った存在になっていった。当然、レコード会社も目をつける。沖縄地方局のコンテスト番組で優勝したとき、大手キー局のプロデューサーから「東京に来るべきだ」と言われた。
「ベース(基地)では相当な人気があり、場数も踏んでいたので、両親も“いける”と思ったんでしょうね。僕たちも挑戦してみたかった。そこで、店を人に任せて、家族7人で東京に移住することにしたんです」
【一家7人で上京、九段下の旅館で暮らし始めたが、全く売れない日々が続いた……次のページに続きます】