石川さゆり(歌手)

─歌手デビュー50年。時代に合わせ、多彩な共同制作や配信に挑む─

「歌や音楽は最も身近な小さな文化。時代に反応し、伝えてゆく役目がある」

令和5年10月、長野県の八ヶ岳高原音楽堂で行なわれたアコースティック・コンサートにて。歌う際は姿勢や視線指先の一本に至るまで細心の注意が払われている。

──デビューから50年を迎えました。

「デビューしたときはまだ中学生でしたので、まさか50年を超えて歌をうたい続けるとは夢にも思っていませんでした。いま歳月を振り返ると、日本が高度経済成長になり、バブルがあり、最近では新型コロナの流行もあった。そうした『変わりゆく日本』の社会の中で、歌を軸にしながら生きてきた私はとても幸せだと思いますし、面白さも感じます」

──面白さとはどのようなものでしょう。

「『歌』と『時代』が、どこかで密着していると思うことです。たとえ同じ歌であっても、“こういうときだから、みなさんの心に響き、受け入れられたのだ”と思うことがあります。ただ、この感覚の面白さは『言葉』だけでは説明しきれないものですね。

歌をうたっていると、『言葉』というものは残り過ぎると思うことがあります。だからこそ“この歌はこういう歌だ”と説明し過ぎないようにしたい、という思いがあります。私が発信した表現が、みなさんの日常やそのときどきの気持ち、つまり『時代』と混ざり合っていく。すると、ひとりひとりの中でひとつの『歌』の命が膨らみ、様々な意味を帯びてゆくのではないかと信じているからです。

歌の受け止められ方はひと通りではなく、聞いてくださったみなさんの数だけ『歌』がある。私はみなさんに歌を届けたいと思い、みなさんにはそれを今の日常や生活の中で感じてもらえれば充分なのです」

──近年はアコースティックライブに力を入れています。

「アコースティックライブは、コロナ禍でコンサートができなかった時期に、“どうすればみなさんに歌を届けられるのだろうか”と悩み、もがいた先に生まれたものです。生きていれば、何をしてもダメなときがありますよね。ですが、全てを放棄してしまっては何も始まらないので、もがいてみたのです。

コンサートでは歌い手と聞き手の間にも命が生まれると信じています。“人を集めてはいけない”と言われたとき、座して待つことは嫌でした。そこで、YouTubeで『お家でライブ』という配信を行ないました。演奏者は全員が集まってはならなかったので、奏者はひとりかふたり。ピアノやギターの方などと組んで歌を発信する。そうして生まれたのがアコースティックライブでした」

──その魅力とは。

「アコースティックライブの魅力は、自由であることです。ベースとリードギター、他にもうひとつくらいの楽器が加わった最大でも4人編成。演奏中に気付いたことですが、“そこは僕が出るよ”“ここの足りないところは私が埋めるよ”と、臨機応変にライブを作ってゆく感覚がありました。

フルオーケストラも迫力はありますが、譜面などがしっかり固まっていないアコースティックライブの場合、それぞれの楽器が表現の足りないところを補ってゆく面白さがあります。すると、歌と楽器が会話しているかのように感じるのです。ひとつの曲をライブの現場で作り上げていくと、“これが本当の音楽なのだ”と実感しました。デビューから50年が経ってなお、新たな感覚を抱けることは本当に楽しいことです」

──歌をうたうようになったきっかけは。

「島倉千代子さんのファンだった母の影響です。熊本に住んでいた小学生の頃、地元の体育館で島倉さんの歌謡ショーが開かれました。母は幼い私を家に置いていくわけにもいかず、連れていってくれました。

島倉さんのショーは、見たことのない別世界でした。きれいなライトがふわーっと点いて、赤や青や緑、紫と色が流れるように変わってゆく。舞台の上で紫色の振袖を着て歌う島倉さんの姿に、私は目が釘付けになりました。“私も大きくなったら、こんな風になりたい”と、そのとき夢を抱いたのです」

保育士の仕事をしていた母と。小学5年生の途中まで故郷の熊本で過ごした。「肥後もっこす」の言葉にふさわしく、元気で活発な性格でクラスの人気者だった。

「たとえ大先輩でも新人でもレコードの価値は同じという責任」

──歌の稽古の月謝をアルバイトで稼いだそうですね。

「我が家は塾の費用は出してもらえましたが、歌の稽古の費用は自分で稼ぐことになりました。月謝は5000円。中学生でその金額を稼げるのは新聞配達か牛乳配達くらいでした。新聞配達は毎日あるので休みがありませんが、牛乳配達は日曜が休み。稽古に行く時間を日曜に確保しました。それだけ、当時の自分にとって歌手になることは、叶えたい夢だったのです」

──14歳のときにデビューしました。

「中学3年生のとき、テレビ番組『ちびっこ歌謡大会』のオーディションに応募した友人が、家族で祖母の家へ帰省して行けなくなり、参加はがきをもらった私が代わりに行くことになったのです。オーディションの会場では、ジーパン姿でピアノに合わせて昔の歌をうたいました。大正時代か昭和時代初期の歌で、祖母がよく歌っていた曲だったと記憶しています。すると、私は運良くオーディションに合格。予選を勝ち上がり、豊島園でのグランプリ大会に出場することになりました。そして優勝することができたのです。夢のような夏休みでした」

──デビュー曲は『かくれんぼ』です。

「デビューをするまでは、カレンダーに印をつけて、“あと100日”“あと99日”と指折り数えながら、『その日』を待ちました。今でもよく覚えているのは、レコードが初めて発売され、マネージャーが私をレコード店に連れていってくださったときのこと。たくさんのレコードが並んでいるのを見ながら、こう言われたのです。

“ほら、見てごらん。美空ひばりさんのレコードも、君のレコードもみんな値段が一緒なのだからね。頑張りなさい”

歌の世界では美空ひばりさんのような大先輩でも、私のような新人でも、一枚のレコードの価値は同じ。お客さんが買い求めてくださることの重みを、当時の私は子どもなりにひしひしと感じました」

──『津軽海峡・冬景色』の大ヒットはデビューして4年後です。

「それまでヒット曲がなかったのですが、いつも周りの人たちから温かく見守ってもらった記憶があります。例えば、当時のテレビの歌番組は、リハーサルでは歌わずに本番に飛びこむ多忙な歌手の方も大勢いました。そんなとき私は“それ、私が歌います!”と手を挙げて、様々な楽曲の音合わせをしていました。それは苦ではなく、歌うことが本当に大好きだったので。

ですから、テレビ局の人たちも“この子を応援しよう”という気持ちになってくださったのかもしれませんね。“さゆりは、いつか必ずヒット曲が出るはずだから”と、ずいぶん言っていただいたものです。その後、『津軽海峡・冬景色』に出逢えたときは、“ほらね。良かった”と多くの人たちに喜んでもらえたことが嬉しかったです。

ヒット曲を歌えるようになっても、私自身は何も変わりませんでした。しかし、周りの人たちが時代とともにどんどん変わっていくことはすごく不思議で、興味深かったのです」

吉村順三が設計した六角形の音楽堂は標高1500mに建つ。舞台の背景がガラス張りのため八ヶ岳の大自然が見え、コンサートが進むにつれ辺り一面が夕焼け色に染まっていく。

「私の役目は風向きを感じながら移りゆく『時代』を表現すること」

──平成24年頃からは椎名林檎さんなど、多分野の方々とのコラボも増えました。

「若い頃は、三木たかし先生や市川昭介先生、阿久悠先生、吉岡治先生など、素晴らしい作曲家や作詞家の方々に楽曲や詞を書いていただき、その歌にしがみつくように歌っていました。しかし、年齢を重ねてゆくと諸先生方が『メリー・ポピンズ』(ロバート・スティーブンソン監督、昭和40年のミュージカル映画)の主人公が天に昇るようにひとり、またひとりと亡くなっていきました。先生方を失う寂しさは、言葉では言い尽くせないものがあります。

“これから、私は何を歌っていけばいいのか”ともっとも思い悩んだのが、平成22年に吉岡治先生が亡くなったときでした。悲しみに暮れていると、吉岡先生の奥様がこう仰ったんです。

“さゆりちゃん、うちのパパの新しい歌はもう二度と生まれません。だから、これからのあなたは自分で歌と出逢って、歌を作っていかなければならないのよ”と。

以来、私は“歌との出逢いを作るにはどうしたらいいのか”と考えるようになりました。たどり着いた答えのひとつが、これまでのように自分に歌を作ってくれる人を探すのではなく、様々な分野で自身の世界を持っているあらゆる年代のアーティストの方々と交わることで、新しい何かを生み出すことだったのです。それが平成24年からの『X-Cross(クロス)』という試みの始まりでした」

2部制の公演では洋装と和装の2種類を用意。「着物の印象が強いかもしれませんが、ドレスで歌うのも大好きです」と石川さん。黒いドレスが照明に輝く。
本番当日、リハーサルで演奏者や音響スタッフと打ち合わせを行なう。ホール内での歌声や楽器音の響き方や、生歌とスピーカーの音質の違いなどを入念に確認する。

──今後はどのように「歌」をうたっていきたいですか。

「今まで私が歌を通してやってきたことを、これからも丁寧に続けていきたいですし、続けていかなければならないと思っています。歌や音楽は、人が生きていく上でいちばん身近にある文化だという思いが、私の中にはあります。なので、普段の様々なニュースや世の中の動きから感じ取ったことを歌に込め、私が伝えたいものが、聞き手にとって常に身近に感じられるようであれば嬉しいです」

──そのためにはどのような姿勢が必要でしょう。

「常に時代や社会で起きている出来事に心を開き、世の中の風を感じ取ろうとすることが大切なのでしょうね。なぜなら、人生には良い時期もあれば、悪い時期もある。吹いている風は南風の日もあれば、北風の日もあるわけで、そのときどきに吹く風の動きを感じていないと、自分が何を歌い進んでいいのか分からなくなってしまうと思うのです。

もちろん、ときには心を空っぽにして『待つこと』も大事。ですが、ただ待つだけではなく、その時々で吹く風の音や香りを感じるようにしておく。すると、また風が吹きはじめる。そのとき、そちらの方向に進んでいくようにしています。

繰り返しになりますが、私たちの歌や音楽というのは、最も身近にある小さな文化です。そして、歌は様々な日に心を勇気づけたり優しくつつんだり世の中の変化に反応しながら、様々な伝わり方をしていくものです。だからこそ、私の役目は、風を感じながら移りゆく『時代』を表現し続けていくことだと思います。これからも、そんなことを思いながら歌っていきたいと思っています」

公演終了後、八ヶ岳高原ロッジで行なわれた演奏者との食事会。石川さんの音頭で乾杯。本番の緊張がほぐれた石川さんの柔和な笑顔が場を和ませる。

石川さゆり(いしかわ・さゆり)
熊本県熊本市生まれ。昭和48年、『かくれんぼ』で歌手デビュー。昭和52年に『津軽海峡・冬景色』が大ヒット。その後、『天城越え』『風の盆恋歌』など数多くの曲を世に送り出す。演歌の枠を超え、様々な分野のミュージシャンから楽曲の提供を受ける「Xクロス-Cross」シリーズも好評。紅白歌合戦は昭和52年の初出場から45回出場し、令和5年も出場を予定している。令和元年、紫綬褒章を受章。

※この記事は『サライ』本誌2024年1月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/稲泉 連 撮影/吉場正和)

 

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