◎No.04:石川啄木の歌留多
文/矢島裕紀彦
天才歌人・石川啄木に、日本一の代用教員を自負していた時期がある。明治39年(1906)から翌年にかけて、生まれ在所、岩手県渋民村の渋民尋常高等小学校で教鞭をとっていた数え21歳のころである。
この前後、啄木は仲間や生徒たちとともに、よく歌留多あそびに興じた。日記にもこんな記述がある。
「夜、加留多會へ行つた。田舎でこの村の位加留多の盛んな所は滅多にない。これは再昨年自分がやり出してから一村の子女皆この優しい遊技に興味を持つ様になつた結果だ」(『渋民日記』明治39年3月8日)
啄木が使った歌留多は、岩手県盛岡市の啄木記念館にある。桐の薄板に一枚一枚、墨で百人一首を手書きした札。一部が散逸し、その数56枚。
歌人・啄木の業績は、旧来の形式の打破にあった。でいながら万葉の歌にも通じる心地よい「しらべ」は、この歌留多あそびで培われたものなのか。
記念館横合いに移築・保存される小学校校舎の教室の床面、窓から射す陽光の中に歌留多を広げると、古(いにしえ)の歌を詠み上げる青年教師・啄木の朗々たる声が、胸中に響く一瞬があった。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。『サライ.jp』で「日めくり漱石」「漱石と明治人のことば」を連載した。
写真/高橋昌嗣
1967年桑沢デザイン研究所 グラフィックデザイン科卒業後、フリーカメラマンとなる。雑誌のグラビア、書籍の表紙などエディトリアルを中心に従事する。
※この記事は、雑誌『文藝春秋』の1997年7月号から2001年9月号に連載され、2001年9月に単行本化された『文士の逸品』を基に、出版元の文藝春秋の了解・協力を得て再掲載したものです。