文/矢島裕紀彦
今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。
【今日のことば】
「いろんな男の人をみてきたけど、あたしゃお父様が一番いいねぇ」--夏目鏡子
夏目漱石没後しばしの時を経て、晩年に至った未亡人の鏡子が、孫のひとり(長女・筆子の四女)である半藤末利子さんとの世間話の中で、遠くを見るように目を細めて、ふともらしたことばである。鏡子の、夫・漱石に対する愛情深い眼差しを感じる。
半藤末利子さんはこのことを、文春文庫版『漱石の思い出』(夏目鏡子述・松岡譲筆録)の解説に書きとめている。
鏡子の旧姓は中根。明治10年(1887)7月21日、広島県深津郡福山町西町(現・広島県福山市)で生まれた。ちょうどこの頃、鏡子の父親の中根重一が、新潟の病院へドイツ人院長の通訳として招かれたため、まもなく鏡子も母親とともに新潟へ赴き、4~5歳頃までは新潟で育ったという。
その後、重一は上京して官吏となった。漱石と鏡子の見合い話が持ち上がった明治28年(1895)には、重一は貴族院書記官長という要職に就いていた。貴族院書記官長の官舎は虎ノ門にあり、西洋館と日本館が両方あり、当時はまだ珍しい電話や電灯がひかれていたという。
鏡子は中根家の長女で、下に3人の妹と2人の弟がいた。官舎には家族の他に、書生が3人、家政婦が3人、お抱えの車夫がひとり同居していたというのだから、この頃の中根家は、隆盛を極めていたといっていい。鏡子もお嬢様育ち。尋常小学校卒業後は、学校へは行かず、家庭教師について勉強した。いわゆる箱入り娘だったのである。
結婚後の漱石と鏡子は、7人の子をなし、漱石の死がふたりをわかつまで、20余年の月日を添い遂げた。漱石の英国留学中には、「しきりに御前が恋しい」「私もあなたの事を恋しいと思いつづけている事は負けないつもりです」という手紙もやりとりしている。木曜会で漱石のもとに集う多くの門弟たちにも、鏡子は母親のような気持ちで接しよく面倒を見た。
後年、ともすると不仲説や悪妻説が前面に出過ぎたきらいがあるが、掲出のことばからも、夫婦の間に確かな情愛が通い合っていたことがうかがえるのである。
別のあるときには、鏡子は、もし船が沈没して漱石がイギリスから帰ってこなかったら、「あたしも身投げでもして死んじまうつもりでいたんだよ」と語ったこともあったという。
夫婦はいま、東京・雑司ヶ谷の墓地に仲よく眠っている。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。
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