文/矢島裕紀彦
今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。
【今日のことば】
「おうい雲よ/ゆうゆうと/馬鹿にのんきさうぢやないか/どこまでゆくんだ/ずつと磐城平の方までゆくんか」
--山村暮鳥
詩人の山村暮鳥は、明治17年(1884)、群馬の榛名山麓にある棟高村の大きな農家に生まれた。本名・土田八九十。長男だったが、婿養子の立場である父が未入籍だったため、役所には母方の祖父の次男として届けられた。
他にも、この家には何やら複雑な事情があったらしく、後年、暮鳥自身がこんなふうに語っている。
「父は婿であった。母は泣いてばかりいた。自分が姉さんとよんでいた母の妹は真赤な血嘔吐をはいて自分の四つの春に悶死した。自分にはおばあさんと呼ばねばならぬ人がかわりがわりに幾人もあった。大きな家は陰鬱でいつもごたごたしていた。他家のように自分の家では笑い声一つ立てるものがなかった」(『半面自伝』)
小学校中退後、暮鳥は10代前半で家を出た。さまざまな職場を転々としながら放浪。「肉から皮を剥ぐような暮らし」の中で、物を盗み、一椀の食物を乞うたことさえあったという。
キリスト教と出会ったのは、両親のもとに戻り、小学校の臨時雇として働きはじめた17歳の頃。教会で英語夜学校が開校されたのを知り、往復7里の道を冒して、毎夜欠かさずに通った。燃えるような向学心が暮鳥を突き動かしていた。
翌年、受洗すると、すぐに伝道師となることを志願し、伝導学校へ入学。そこで抜群の成績をあげ、別科生として東京の築地聖三一神学校への編入を許された。同校卒業後、秋田、仙台、磐城平、水戸などの各教会に勤務した。
暮鳥は、文学への思いも早くから有していた。神学校在学中から短歌をつくりはじめ、まもなく詩作に移行した。詩表現の中に真理を追い求める物狂おしいほどの情熱は、時に、そのまま伝道師としての激越な行動にも結びついた。仙台では、教会の長老の言行不一致を厳しく指弾する説教を一般聴衆の前で繰り広げ、騒動になったこともあった。
解任覚悟のこの事件のあと、許されて転任し伝道師をつづけながら、暮鳥は以前にも増して文学活動に力を入れた。事件から3年後の大正2年(1913)、処女詩集『三人の処女』を出版。翌大正3年(1914)には、萩原朔太郎、室生犀星と、詩、宗教、音楽の研究を目的とする「人魚詩社」を設立した。その後さらに、第2詩集『聖三稜玻璃』の刊行で、先鋭な表現意識による前衛的挑戦を繰り広げ、詩壇に大きな波紋を投げかけた。多くの非難を浴びる半面、「日本立体詩派の祖」とも呼ばれた。
大正9年(1920)、胸を患った36歳の暮鳥は、職を解かれる形で教会を離脱。暮らしを立てるため、童話や童謡にも手を染めていく。長からぬ余命を自覚することで、詩風も自ずと変化し、枯淡の中に清明の味わいを醸した。
掲出の『雲』と題する詩がその典型。ここには、無垢なる童心にも似た、東洋的な無の境地さえ感じられる。かつて先鋭的技巧に突っ走った暮鳥が、この頃は「だんだんと詩が下手になるので、自分はうれしくてたまらない」とも語っていた。
大正13年(1924)師走、暮鳥は41歳の誕生日と詩集『雲』の刊行を目前に、生涯を閉じた。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。