文/矢島裕紀彦
今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。
【今日のことば】
「私の夫のお嫁さんに、娘さんをいただきたい」
--岸他万喜
先日紹介した通り、竹久夢二は恋多き男だったが、結婚したのは一度だけ。つまり、戸籍上の妻は、生涯にひとりしかいなかった。それが他万喜(たまき)である。他万喜は金沢の元士族の娘。旧姓・岸。明治15年(1882)生まれだから、夢二より2つ年上だった。
他万喜は夢二と出逢う以前に、高岡工芸学校(富山)の日本画教師・堀内喜一と最初の結婚をし、2人の子を産んでいた。ところが、夫がチフスに罹患して急逝。他万喜は生活のため、地元の尋常小学校の先生となり、子供たちに図画と習字を教えていた。しかし、生来の美貌が禍の種となった。校長が他万喜を見そめ、しつこく言い寄ったのだ。噂はたちまち村中に広がり、他万喜は顔を上げて歩くこともできなくなってしまった。
他万喜はやむなく子供を余所へ預け、東京で本屋を営んでいた兄を頼って上京。早稲田鶴巻町に絵はがき屋「つるや」を開店した。夢二が他万喜と出逢ったのは、この「つるや」であった。
夢二の「つるや」訪問は、明治39年(1906)11月5日。開店からわずか5日目だったという。これは実は、単なる偶然ではなかった。
当時、夢二は新聞や雑誌に挿絵を描きながら早稲田実業学校に通っていた。学校の食堂で、最近、近所で開業した「つるや」という絵はがき屋に、目の大きな美しい女店主がいるという噂を耳にし、一目見ようと、授業をさぼって足を運んだのである。
夢二は店の奥に座っていた女店主に声をかけた。
「雁次郎の絵葉書はないんですか?」
「おあいにくさまですが、役者絵は」と、他万喜は答える。
「でも、風景と図案だけでは売れませんよ」
夢二はそう言って、翌日から早慶戦のスケッチなどを描いた自筆の絵はがきをせっせと持ち込んだ。次第に他万喜も夢二に惹かれていき、いつか身重となって、明治40年(1907)9月に入籍。正式な夫婦となった。
それが2年も経たずに離婚に至ったのは、どうやら夢二の父親の反対と横車によるものらしい。ふたりは戸籍上は離婚しながら、なおも夫婦同然の暮らしを続け、子をもなしていく。
夢二と他万喜のそんな暮らしが、とうとう破局したのは、笠井彦乃の出現による。師弟関係としてはじまった夢二と彦乃の仲は、まもなく恋愛へと深化。ふたりは、忠臣蔵さながらに、互いに「山」と「川」の暗号で呼び合って秘密の逢瀬を重ねていた。
事実を知った他万喜は、ここで驚くべき行動に出た。なんと、彦乃の親元を訪ね、掲出のことばを告げたのである。
夢二の芸術にとって、彦乃は不可欠の存在であり、自分は身を引いてもなんとかしなければいけないと、思い立っての行動だったらしい。度はずれた世話女房ぶりと言うべきか。
彦乃の親も仰天したろうが、夢二もひっくり返った。夢二は他万喜の前から逃げるように京都へ行き、ふたりの関係は破局へ向かう。
一方で彦乃と夢二の仲も、短い幸福を味わったものの哀しい結末となった。
夢二が信州の富士見高原療養所で亡くなって半年が過ぎた頃、ひとりの目の大きな中年女性が、療養所を訪れた。夢二がお世話になったお礼だといって、無償でしばらくの間、雑役婦として働いた。蒲団の洗濯や縫物などをして、周囲からも親しまれ感謝された。
その女性は、誰あろう、夢二の元妻、他万喜。どこ、どこまでも世話女房であった。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。