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文/矢島裕紀彦

今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。

【今日のことば】
「一生は長くて短い 幸せは辛抱と思いやりの果てにくる」
--井上ふみ

上に掲げたのは、井上ふみが、孫娘のひとり直子さんのために色紙に書いたことばである。

井上ふみは、作家・井上靖の妻にしてエッセイスト・歌人。明治43年(1910)生まれ。父親は解剖学の世界的権威で京大名誉教授の足立文太郎。足立家と井上家は、同郷の古い親戚でもあった。ふみの祖母が、靖の曾祖父の妹だったのである。

靖のサラリーマン時代、ふみは一度も月給袋を渡されたことがなかったという。そのため、暮らしに窮し、ふみは着物をはじめ手元にあるものは片端から売った。しまいには結婚指輪まで手離した。それでも、父親から「若いときはいくら貧乏してもいいんだ」と教えられていたため、貧乏を恐れる気持ちは微塵もなかったという。

靖が作家生活に入ってからは、ふみはよく原稿の清書を引き受けた。靖と同じ太い万年筆を使い、字も似ているため、編集者にも区別がつかないほどだった。一方で、東京・世田谷に住居を構えてからは、庭の一画を畑にしてさまざまな野菜を自家栽培し、家族の健康面にも配慮した。

晩年のふみは、靖が作家として大成したことが土台となって、歌を詠んだりエッセイを書いたりする機会が持てた。夫婦の間の温かみを感じさせるこんな歌もある。

「君の歌は新古今風かなあとわが夫歌を評してほほ笑みており」

靖が入院先の国立ガンセンターで亡くなる2日前、ふみは娘からの電話を受けた。「お父さんがしきりにお母さんを呼んでいる」というのだった。ふみが急いで駆けつけると、酸素テントの中の靖は、ふみの顔を見るなり、「あれは『私の夜間飛行』とすればいいよ」と言った。

ふみはこの頃、自身の旅行記をまとめて『夜間飛行』というタイトルで出版しようと考えていた。ところが、外国の有名な作家に同じ題名のものがあると指摘され、どうしたものかと困っていた。そのことが靖の頭にあり、間近に死を感じながら思いをめぐらし、助言をしてくれたのだった。そして、これが、靖からふみへの最後のことばとなった。

靖亡きあとも、ふみはその存在を身近に感じながら、次のような歌々を詠んだ。

「今もなお在(いま)すが如き心地して一人語り合う日々にして」
「夫なきこれからの世も心して満たしゆかんと思う日々なり」
「靖逝けどその魂はわがうちにして二人で生きる世ぞと思えり」

あるときは、靖のお下がりのセーターを身につけてインタビューに答えながら、こんな一言をも発している。

「ええ、あの人、いい人生だったと思います。私、一所懸命大事にしてあげましたからね」

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。

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