安土城で行なわれた信長による家康接待の宴が「麒麟がくる」で描かれた。饗応役を務めたのは明智光秀。その真相やいかに? かつて歴史ファンを虜にし、全盛期には10万部を超える発行部数を誇った『歴史読本』(2015年休刊)の元編集者で、歴史書籍編集プロダクション「三猿舎」代表を務める安田清人氏がリポートする。
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家康の接待役を仰せつかった光秀
天正10年(1582)4月21日、武田攻めを成功させた織田信長は、意気揚々と安土城に凱旋した。織田政権にとって最大の敵である武田家を滅ぼしたことで、信長は得意の絶頂にあったと思われる。
そして、武田家滅亡によって最大の利益を得たのが、信長の同盟相手である徳川家康だった。家康は長年、国境を接する武田家の脅威と向き合い、最前線で戦いを繰り返してきた。信長はその労に報いるために、駿河(静岡県)一国を家康に与えた。
これにより、家康は三河(愛知県)、遠江(静岡県)と合わせて三か国の大大名となったのだ。国内を見わたしても、家康以上の勢力は関東の北条、中国の毛利、九州の島津など、数えるほどになった。
家康は、駿河拝領のお礼言上のために、安土に参上することになった。そして、その家康の饗応(接待)を任されたのが、明智光秀であった。
信長伝記の決定版である『信長公記』には次のように書かれている。
5月15日、家康公、番場を御立ちなされ、安土に至って御参着。御宿大宝坊然るべきの由、上意にて、御振舞の事、惟任日向守に仰付けられ、京都・堺にて珍物を調へ、おびただしき結構にて、15日より17日まで3日の御事なり。
「惟任日向守」とは光秀のこと。5月15~17日の3日間、光秀は家康の接待掛を仰せつかったというのだ。
『川角太閤記』という、聞き書きなどをまとめた豊臣秀吉の逸話集には、このとき光秀の饗応に不手際があったと記している。用意した魚が、夏の暑さで腐っていたというのだ。当然、ホストである信長は激怒し、光秀の接待役を解任。急遽、光秀は中国地方への出陣を命じられたという。
接待役をクビになるという、前代未聞の恥をかかされた光秀はこれを恨みに思い、さらに中国攻めに出陣するということは、対毛利戦争の責任者である羽柴秀吉の指揮下に入ることを意味していたので、これもまた光秀のプライドを傷つけることになった。
こうした「怨恨」がつもり重なって、ついに光秀は本能寺の変を起こすにいたった——というのが、古典的な本能寺の変「怨恨説」のパターンだった。
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