接待役解任の真相
しかし、現在ではこの説を素直に信じる人は少ない。そもそもこの「解任」話は、『信長公記』には出てこない逸話で、『川角太閤記』を作る際に書き加えられたものだ。魚を腐らすなどという子どもじみた失態を光秀が犯すというのも現実離れしている。
さらに『川角』では、接待役解任に腹を立てた光秀が、怒りに任せて腐った魚を安土城の堀にぶちまけたという話になっていて、これも大名クラスの武将の振る舞いとしてはあり得ない。だいたい本当に腐った魚を出したならば、悪いのは光秀であり、このような「八つ当たり」はお門違いだろう。光秀は、いつからそんな道理をわきまえない愚将となったのか。
光秀が接待役を解かれ、中国戦線に向かうよう指示されたのは事実だ。ただそれは、毛利方の備中高松城を水攻めにしていた秀吉が、信長に応援要請をしたのが理由だった。信長は自らが毛利攻めに出陣することを前提に、その先駆けとして光秀を派遣しようとしたのだ。
家康の接待は大事だが、3日間の接待が終われば、家康は堺見物をしたうえで本国に帰国する予定になっている。最高指揮官である信長は、祝いの席にあっても対毛利戦争を優先させ、光秀派遣という現実的な対応をしたに過ぎない。
実にまっとうな指示であり、光秀が恨みを抱く余地など1ミリもない。
『川角太閤記』は、羽柴秀次(秀吉の甥)の家臣田中吉政に仕えたとされる近江出身の川角三郎右衛門が執筆した。本能寺の変から関ケ原の戦いまでの間を描いたもので、同時代を生きた人々の聞き書きをソースとしていることから、数ある『太閤記』と呼ばれる秀吉伝記のなかでは、比較的、信憑性が高いとされている。
しかし、やはりその執筆目的は、太閤秀吉の栄光の歴史を描き出し、さらに田中吉政や自分(川角三郎右衛門)の功績もアピールしておこうというものであり、すべてを信じることはできない。
この接待役解任話も、光秀がついに謀反にいたった過程をドラマチックに描くための「演出」と考えるべきだろう。
光秀の開いた茶会
ところで、この光秀による「接待」、実際にはどのようなものだったのだろう。具体的には、当時としては贅を尽くした料理で持てなす「予定」だったであろう。
残念ながら、このときの献立などは残っていない。しかし、幸いにしてその4年前、天正6年1月11日に光秀は茶会を催していて、その時の献立が残っている。
その10日前の元旦、光秀は安土城において信長から茶道具を下賜され、同時に「許し茶湯」を申し付けられている。信長は、限られた家臣にのみ茶の湯を許し、その証として茶道具を与えていたのだ。
ちなみにこのとき、光秀とともに「許し茶湯」を得たのは織田信忠、武井夕庵、林秀貞、滝川一益、細川藤孝、荒木村重、長谷川与次、羽柴秀吉、丹羽長秀、市橋長利、長谷川宗仁という、そうそうたるメンバーだった。茶の湯を許されるというのは、信長家臣にとって大変なステータスだったのだ。
このとき、「八角釜」という茶器を拝領した光秀は、さっそく茶会を開く。それが1月11日の茶会だったのだ。「八角釜」を披露する目的もあったろうが、茶の湯を許されたことがよほど嬉しかったのだろう。本拠である坂本城に、津田宗及、平野道是、銭屋宗訥という、いずれもこの時代を代表する商人にして茶人を招いている。
そして、この茶会では堺商人の津田宗及が光秀に代わって「茶堂」=亭主を務めた。天王寺屋の屋号を持つ大商人でもあった宗及は、数多くの茶会の記録を残していて、それは後に『天王寺屋会記』としてまとめられている。
この『天王寺屋会記』に1月11日の茶会の記録が残っていた。歴史料理研究家の糸乘踏霞(いとのり・とうか)さんの研究に従って、その内容を紹介しよう。
茶会で出された料理の数々
茶会で出される料理は、大きく「本膳」と「後段」に分かれている。
「本膳」の料理は以下の通り。
(1)鮒のなます(別皿の調味料をつけて食べる)
(2)生靏汁(塩漬けにしていない鶴で作った汁。鶴は信長からの拝領)
(3)アへ物入テ(するめと鰹節を酒に浸して和えたもの)
(4)飯タケノコ入テ(筍入りのご飯)
(5)ウツラ焼鳥(ウズラの焼きもの)
(6)土筆ウト(つくしとウドの和え物)
(7)薄皮のアンチウ(薄皮饅頭)
(8)イリカヘ(焼いた榧〈カヤ〉の実)
これらの料理が、黒塗りの「折敷」に載せて供されたという。
そして「後段」はというと次の通り。
(1)サウメン、レイメン(冷たい素麺。山椒の粉をつけて食べたと思われる)
(2)せりやき(芹を酢で煮たもの)
(3)ウケイリノ吸物(魚のすり身の吸物)
(4)印籠ニ味噌、山枡、ムキクリ、きんかん(印籠に入れた味噌、山椒、剝いた栗、キンカンの身)
当時は調味料も少なく、塩、味噌、それにたまに酢や山椒などを使うのみだったようだ。現代人の感覚では質素と見えるかもしれないが、実際には四條流(庖丁道)という、平安時代以来の宮中料理の伝統を継ぐ格式高い料理法と、同時代の武家料理をミックスした、簡素ながらも心配りの利いた御膳だったという。
もてなしの亭主は津田宗及に任せたとはいえ、光秀がこのような料理を提供することができる人物であったことは間違いない。
安田清人/1968年、福島県生まれ。明治大学文学部史学地理学科で日本中世史を専攻。月刊『歴史読本』(新人物往来社)などの編集に携わり、現在は「三猿舎」代表。歴史関連編集・執筆・監修などを手掛けている。