『麒麟がくる』では信長(演・染谷将太)の比叡山焼き討ちはどう
扱われるのか。

織田信長(演・染谷将太)と朝倉義景(演・ユースケ・サンタマリア)の戦いは、朝倉側に加勢した比叡山焼き討ちという展開を迎える。世上広く信じられてきた全山焼亡という大量殺戮行為は本当にあったのか? かつて歴史ファンを虜にし、全盛期には10万部を超える発行部数を誇った『歴史読本』(2015年休刊)の元編集者で、歴史書籍編集プロダクション「三猿舎」代表を務める安田清人氏がリポートする。

* * *

光秀は比叡山焼き討ちを止めようとした?

元亀2年(1571)9月、織田信長は世に名高い「比叡山焼き討ち」を実行した。信長の伝記の決定版で、史料的価値も高いとされる『信長公記』によれば、根本中堂や日吉大社をはじめとする堂舎、僧房、経蔵など、すべての建物が焼き払われ、一山ことごとく灰塵に帰した。四方から攻めかかる織田軍は、僧侶、俗人、老若男女を問わずことごとく首を斬り、目も当てられぬ有様だったという。

比叡山の東に位置する宇佐山城を任されていた明智光秀は、このジェノサイド(大虐殺)に批判的で、信長に焼き討ちの中止を諫言して不興をかい、それが信長との信頼関係に影を落とし、やがては本能寺の変に至ったとの「解釈」もなされ、そのようなストーリーの小説、テレビドラマも数多く生み出された。

しかし、光秀の対応も含めて、この比叡山焼き討ちにはいくつもの疑問が呈されてきた。

まず光秀の対応についてだが、焼き討ち直前の9月2日、光秀が西近江の国衆・和田秀純に宛てた手紙が注目されている。和田氏は、信長に協力してくれた地元の有力者で、光秀にとっても、ぜひ味方につけておきたい人物だ。

この手紙のなかで、光秀は最近の戦況や今後の方針について報告しているのだが、そのなかで「仰木村などは〈なで斬り〉にしよう。すぐにわれらの思い通りになる」だの、信長に敵対して一向一揆の拠点となった志村城に対し、信長が「干殺し(兵糧攻め)をなされた」といった、不穏な文言を記しているのだ。

これは、信長軍の戦果を誇ると同時に、「敵対すると、こうなるぞ」という恫喝の意味も含んでいるように思われる。

同じ文中で、光秀は和田氏や、和田氏と同じく信長に帰服した八木氏という国衆に対し、くどいほど礼を述べている。一方で織田軍団の中核武将としての強面ぶりをアピールし、一方でもみ手をするように懐柔する。光秀は比叡山焼き討ちを控え、慎重かつ強硬に地元の国衆に応対していたのだろう。どう考えても、比叡山攻めに積極的にコミットしていたとしか思えない。

しかも、比叡山焼き討ちが実行に移された後、光秀は信長から近江国志賀郡の支配と、京都にあった比叡山領の管理を任されるという抜擢人事を受け、さらに自らの新たな居城、坂本城の築城を許されている。

坂本城は、翌元亀3年(1572)にはほぼ完成したとみられる。主君の信長が安土城を築いたのは、その4年後の天正4年(1576)だが、すでに坂本城には大天守(天主)、小天守があったと、坂本城を訪ねてその目で見た公家の吉田兼和は証言している(『兼見卿記』)。また、のちに宣教師のルイス・フロイスは著書『日本史』で、坂本城が豪壮華麗で、安土城に次ぐものだったと語っている。

このような立派な城を築くことが許されたのも、光秀が比叡山焼き討ちで大きな手柄を上げたからに他ならない。光秀は、焼き討ちを止めるよう諫言するどころか、先頭に立って実行し、そのボーナスとして領地を得て、豪壮華麗な坂本城を築いたのだ。

【なぜ信長は、比叡山を焼いたのか? 次ページに続きます】

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