「麒麟がくる」でも描かれた「松平信康事件」。徳川家康はなぜ正室と嫡男を死に追いやらねばならなかったのか?かつて歴史ファンを虜にし、全盛期には10万部を超える発行部数を誇った『歴史読本』(2015年休刊)の元編集者で、歴史書籍編集プロダクション「三猿舎」代表を務める安田清人氏がリポートする。
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事件の一般的なイメージ
天正7年(1579)8月29日、徳川家康の正妻築山殿が、家康の命令により殺害された。またこれに続いて9月15日には、築山殿と家康の間に生まれた長男松平(岡崎)信康も切腹を命じられ自害した。
現在では、家康の嫡男である信康を死に追いやったということを重くみて「松平信康事件」と呼ばれることが多いが、かつては「築山殿事件」の呼称が主流だった。
この事件の真相は、信康の正室で信長の娘である五徳(徳姫)が、不仲となった夫信康の素行の悪さを父信長に告げ口したとか、嫁姑として険悪な関係だった築山殿が敵の武田氏に内通したと信長に密告したためとか、信長の命令を受けて家康が二人に死を命じたと語られてきた。
妻と子の処刑の経緯
当時、家康は領国の東側に位置する遠江の浜松城を本拠としていた。父祖伝来の本拠であった三河の岡崎城は嫡男の信康に任せ、なぜか築山殿も岡崎に残っていた。
築山殿殺害の26日前の8月3日、家康は浜松城から岡崎城に入っている。そして翌日、信康と面談。このとき激しく言い争ったと言われている。そして岡崎城から信康を退去させ、南西20キロほどに位置する大浜(現在の愛知県碧南市)の地に待機させた。9日には信康を遠江まで連行し、浜名湖畔の堀江城に移す。その後、さらに天竜川を北にさかのぼった二俣城に信康を連行し、そして15日に自害させたのだ。
この間に築山殿の殺害も実行されたわけだが、家康の注意はもっぱら信康の処置に向けられていた。信康を岡崎城から退去させた直後、家康は岡崎の南西に位置する西尾城に自らの従弟である松平康忠や側近の榊原康政を配備していた。明らかに信康やその家臣らの暴発に備えたものだろう。
さらに信康を堀江城に移した翌10日には、岡崎城に松平一族や三河の国衆を集め、今後いっさい信康と関わりを持たないことを約束させていた。家康は、細心の注意を払い、嫡子であり岡崎城主として三河の経営を任せていた信康処刑を断行したのだ。
見えづらい事件の真相
当時の徳川家において、嫡男の信康を父家康が粛清するというのは、驚天動地の出来事だったはずだが、詳細な記録は乏しい。のちに徳川の世となったとき、御家滅亡の危機を招いたこの大スキャンダルは、できればなかったことにしたい「黒歴史」だったに相違ない。
しかし、いくら何でもなかったことにはできないだろうから、徳川家にとって都合の悪いことは隠蔽してしまった可能性は十分にある。そのため、なぜ信康と築山殿が命を奪われるに至ったのか、その命令を下したのは家康だったのか信長だったのか。信長の命令だったとして、家康は不本意ながら妻と子の命を奪ったのか。それとも家を守るために進んで二人を粛清したのか。そのあたりが、非常に見えづらくなってしまったのだ。
重要なポイントは、信康も築山殿も、単に五徳と仲が悪いとか、生活が荒れていたといった理由だけならば、家中から追放されたり、出家させられたりするくらいで済んだはずではないかということだ。命を奪うとまでなると、単なるスキャンダルではすまない。家中にしこりは残るし、信康の家臣たちが黙って主君粛清を受け入れる保障などなく、ヘタをすると御家分裂の危険性さえあるのだ。
つまり、信康と築山殿は、徳川家あるいは織田・徳川同盟にとって許しがたい「罪」である背信行為を働いた以外には考えられないのだ。それは謀反、敵への内通に他ならない。
【大岡弥四郎事件との関係は…次ページに続きます】