■街に点在する建築の優品

本州最北の城下町である青森の弘前は、じつは文化財建造物の宝庫である。国の重要文化財指定を受けている建造物の数は22件(44棟3基)に及ぶ。これは、東日本有数の数であるだけではない。弘前には、特定のジャンルに偏ることなく、近世以降の社寺、城郭、武家住宅、商家、農家などの多様な建造物が残っている。さらには、明治以降の洋風建築、陸軍第八師団関連の建築、モダニズム建築の大家・前川國男の処女作をはじめとする一連の作品群など、街を歩くだけで近世以降の多種多様な建築の優品を目にすることのできる場所なのである。

そんな城下町・弘前の建築物について、雑誌『サライ』の取材で、歴史作家の安部龍太郎さんと三重大学の藤田達生教授を案内する機会に恵まれた。

安部龍太郎、藤田達生両氏に解説する弘前市文化財課の小石川透さん。

安部龍太郎氏(右端)、藤田達生氏(中央)に解説する弘前市文化財課の小石川透さん。

ちょうど、「ねぷたまつり」期間中のことでもあり、街全体が賑わい、華やいだ雰囲気の中、城下町・弘前のポイントとなる場所を駆け足で案内させていただいた。本当は、じっくりとご覧いただいた上で、弘前の印象などをぜひともお伺いしたかったが、タイトなスケジュールでの取材旅行でもあり、慌ただしく回ることになってしまったのが心残りである。それでも、おふたりからは、いくつかの心に残る言葉をいただいた。特に印象的だったのは、藤田教授からの次の言葉である。

「私が教鞭を執る三重大学の所在地(三重県)津市は津藩藤堂家32万石の城下町ですが、弘前ほど立派な寺社はありません。4万5千石の弘前藩にこれだけ優れた建築物が残っているとは驚きです」

岩木山神社を皮切りに、津軽家の菩提寺である長勝寺や、津軽為信の菩提寺・革秀寺などを巡り、城下町弘前の中心である弘前城などをご案内したが、行く先々で、「まさか北の果てにこれほどの場所があろうとは」という、お二人の言葉にならない感慨を、その都度の反応から、感じ取ることができたように思う。

 

■分不相応な城

津軽氏は、勢力拡大にともなって本拠地を何度か変えている。津軽氏の遠祖とされる、南部光信が15世紀の末に築いた種里城(現・青森県鰺ヶ沢町)、最も長く本拠として機能した大浦城(現・弘前市)、文禄期に大規模な改築を施した上で津軽為信(ためのぶ)が居城とした堀越城(現・弘前市)、そして、為信の後を継いだ津軽信枚(のぶひら)が築いた弘前城である。

慶長8年(1603)、本拠地の移動に着手した為信は、慶長12年(1607)に京都で客死する。その子、信枚は、慶長15年(1610)に築城に着手し、翌年に完成させた。先ほど、藤田教授は「4万5千石の弘前藩が、すばらしい寺社を持っている」ことに驚いたと記したが、弘前城自体の規模も、石高に比して、充分に分不相応なものであった。

弘前城には、本丸や二の丸、三の丸など、現在も築城時の6つの郭配置が残っている。さらに、城下の要所に、寺社を中核とした防御的な区画を築くかたちで惣構(そうがまえ/城下町一帯を外周を堀や石垣、土塁で囲い込んだ日本の城郭構造)を構成している。現在の史跡指定範囲だけでも、城跡として約82ヘクタールという広大さである。さらには、寛永4年(1627)の雷火で失われたが、築城当初は、本丸南西に、五層の天守がそびえていたという。

4万5千石という極めて小さな辺境の小名であり、かつ、津軽為信というパーソナリティによって成立した津軽家。東北の北部には珍しい新興の津軽家が、大規模な城郭を築き、現在も見る人を驚嘆させる建築を多く建てられたのは何故なのだろうか。

弘前城天守閣(70m移動した昨年の曳屋中の写真)。

昨年、石垣を修復するために「曳屋」と呼ばれる工法で70m移動した弘前城天守閣。


■為信の後継者

築城当初の弘前は高岡といった。弘前という名称は寛永5年(1628)から用いたものである。

この改名が津軽信枚によって行なわれたということは、弘前市民にもあまり知られていない。信枚は弘前城を築き、弘前という街の成り立ちをリードした人物であるにもかかわらず、とかく地元でも影が薄い。

津軽信枚は、慶長12年の兄・信建(のぶたけ)と父・為信の相次ぐ死によって後を継いだ。

信枚の兄・信建は、石田三成の介添えで元服し、以後、イエズス会年報に「太閤に仕えた人物」と記録されるなど、豊臣家と関係が深く、長く大坂に住居した。また、「時慶卿記」などにみられる、安土桃山・江戸初期の公家で参議の西洞院時慶(にしのとういんときよし)との細やかな交流による情報収集など、津軽家では極めて貴重な、中央の政治の動向を読み取る能力をもった人物であったと考えられる。

慶長7年以後は国許へ下り、父に代わって領内を統治した。弘前市十腰内に鎮座する「巌鬼山神社」には、慶長9年に信建が奉納した鰐口(社殿の軒下に吊す金属製の音響具)が残っており、そこには「大檀那津軽惣領主宮内大輔藤原臣信建」と刻まれている。これは、津軽家中で、信建が為信の後継者であるという認識があったからこそのものだったと考えられる。

その信建が32歳の若さで病没し、さらには、その2か月後に為信が亡くなったことで、津軽家中は大きく動揺する。

為信の死後間もなく、信枚は喪に服していた京都から慌ただしく江戸へ下り、跡目相続を幕府から許された。年が改まった慶長13年4月に、信枚は国許へ入部したが、国許では信建の遺児・大熊を擁立して信枚の跡目相続を認めない勢力が待ち構えていた。大熊は、5月に入り、幕府に対して、信枚の跡目相続は正当なものではないと訴状を提出した。

大熊の後ろ盾は、津軽建広(たけひろ)だった。建広は、もとは大河内氏といい、小田原の北条氏に仕えた後、為信に召し抱えられ、その女婿となって津軽を名乗った人物である。津軽氏の上方における対外交渉において信建を支え続けた建広にとって、父や兄とともに上方にいたとはいえ、ほとんど表舞台に立つことのなかった信枚の襲封(領地を受け継ぐこと)は認められるものではなかったのだろう。また、国許においては堀越城に起居し、父の名代として領内統治を実際に担った信建に対して、信枚は、国許における影響力も弱かったと考えられる。

慶長14年正月、幕府は信枚の跡目相続を正当とし、大熊の訴えを退け、大熊と津軽建広は領外へ追放された。その際、幕府からもたらされた「年寄衆連署奉書」は、藩主の信枚ではなく、「津軽年寄中」へ宛てられたものであったが、これは、信枚の領主権力や家中統制力の脆弱性を示したものだと考えられている。

何とか為信の後継者となった信枚だったが、その前途は多難なものだった--。

 

■苦闘する二代目

弘前に残る近世期の建物の多くは、信枚が建てたものである。

弘前城内の櫓や城門、長勝寺の本堂や三門、革秀寺本堂と津軽為信霊屋、岩木山神社の楼門、ほかにも最北の東照宮建築である東照宮本殿、弘前八幡宮の本殿と唐門、熊野奥照神社本殿など、現在、国の重要文化財に指定されている建物の多くが信枚時代のものである。

「ここまでやるか」を今に伝える岩木山神社の楼門。

国の重要文化財に指定されている岩木山神社の楼門。

 
安部龍太郎氏は、雑誌『サライ』の連載「半島をゆく」の中で、岩木山神社楼門に対峙した藤田教授の「この圧倒的な迫力は何だろう」という言葉から、「ここまでやるか、といういささかあきれた気持ちが込められているようである」と、その心中を推しはかっている。

実際、信枚が手掛けた作事(家屋などの建築や修理)と普請(土木工事)には、「ここまでやるか」という印象を受けるものが多い。作事については、大部分が文化年間の津軽為信の二百回忌にあわせて行なわれた改修時の姿で現在に伝わっている。しかし、そのおおもとの形と思想は、間違いなく信枚の時代のものであり、最も大規模な普請であった弘前城については、信枚自らが「御縄張」(縄を張って建物の位置を定めること)している。

信枚には、おそらく、大きな不安があったのではないだろうか。大熊騒動で突き付けられた、自己の跡目相続に対する正当性の補強の必要性と、反比例する領主権力の脆弱性。それはそのまま、父や兄の陰にあって、実績を持ち得なかった自分自身に対する不安へと結びついていったことは、想像に難くない。

そうした信枚が大熊騒動の後に着手したのは、為信をはじめとする父祖を顕彰することだった。菩提寺である長勝寺の伽藍群の建立や、領内の信仰の対象である岩木山での社殿の整備。そして何より、為信の菩提寺としての革秀寺の創建により、領内支配への権威と正当性を示すことになった。

弘前には、近代以前の建築では最北の五重塔が聳える(最勝院)。

弘前市の最勝院には、近代以前の建築では最北に位置する五重塔が聳える。

さらには、分不相応な五層の天守を擁する城郭の建設と、天台宗の師である、徳川家康のブレーン・天海との個人的なつながりによる、家康の養女・満天姫(葉縦院)との婚姻。元和3年(1617)という全国的に見ても極めて早い、弘前城内への日光山東照宮の分霊勧請など、内外の権威を利用して、信枚は藩主権力の確立へとなりふり構わず動き続ける。

こうした信枚の動きをみると、「ここまでやるか、といういささかあきれた気持ち」とは、あくまでも現代人の我々の感覚に過ぎない。信枚の感じていた不安、強迫観念は、おそらく、「ここまでやる」ことでしか払拭できなかったのではなかったか。

弘前城を中心とした本州最北の城下町の風情は、そうした津軽信枚の苦闘の末に生み出された。初期弘前藩政において、領主権力の確立を目指して苦闘した信枚の人生は、彼の残した城郭や建物とともに、弘前という街の中に現在も脈々と息づいているのである。

文/小石川透(弘前市文化財課)

 

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