北方の小藩、弘前藩・津軽家の謎のひとつが、関ヶ原の合戦で敵方の武将だった石田三成の次男・重成と息女・辰姫をなぜ庇護したか、ということだ。
前回、陸奥国弘前藩初代藩主・津軽為信(ためのぶ)の長男である信建(のぶたけ)が、石田三成の介添えで元服し、以後、長きにわたって大坂に住居したことを紹介した(詳しい記事を読む)。その過程で、津軽家と石田三成との間には緊密な関係が築かれたことは想像に難くない。
だが、それだけで、徳川家康と戦を交えた敵方の領袖(りょうしゅう)の子孫を、その危険性も顧みずに匿(かくま)い、さらには、自家の血統に取り込んだりするものなのだろうか。その理由は、はたして、為信が独立した際に受けたといわれている、恩義だけなのだろうか。
■前田利家に嫌われた津軽為信
天正17年(1589)8月20日、加賀藩の祖・前田利家から、北奥羽・三戸(さんのへ)の領主・南部信直(なんぶのぶなお)へ書状が出された。当時、南部氏は、前田利家を取次として豊臣政権との接触をはかっていたのだが、その作戦はほぼ成功し、この段階で、豊臣秀吉の朱印状によって上洛を命じられる、すなわち、豊臣政権下の大名として認められるまでになっていた。だがその一方で、信直は、安東氏(あんどうし)の内乱(湊合戦)に参戦して、安東愛季(あんどうちかすえ)の後を継いだ実季(さねすえ)と激しく戦うなど、惣無事令(そうぶじれい/豊臣秀吉が発した大名間の領土紛争を禁じる法令)の発令後も、奥羽地方では戦争状態が継続していたのである。
前田利家からの書状は、そうした奥羽の状況に対し、「上様」すなわち豊臣秀吉自らが出陣して、秋田を直轄地にして、上杉・南部の両家から奉行を遣わすという構想が述べられていた。さらにその中で、津軽において反乱を起こした「叛逆之族(はんぎゃくのやから)」がいることについて触れ、秀吉の出陣によって、信直の近年の鬱憤も晴らされる、すなわち、逆臣を討伐するということが述べられていたのである。
いうまでもなく、「叛逆之族」とは、当時の状況からして、南部氏と抗争していた津軽為信のことであり、彼は、惣無事令違反者として、豊臣政権から討伐される存在として、前田利家に明言されてしまったのであった。
その後、為信は猛烈な巻き返し工作を展開した。当時、鷹の贈答は、中央政権とコンタクトをとるための重要な手段だったことから、為信は、名鷹の産地である津軽地方の利点を活かして、豊臣秀吉本人や、豊臣秀次、織田信雄など、豊臣政権の中枢を形成する要人に鷹を献上したのである。特に、鷹好きで知られた秀吉は、為信の献上を喜んだようで、天正17年末には、為信に朱印状を与えて鷹の礼を述べている。こうして為信は惣無事令違反による処罰を回避できたのである。
天正18年7月、前田利家は、息子・利長や前田慶次とともに、「津軽仕置」(津軽統治)のために、津軽領に向かった。12月に検地などの「津軽仕置」は終了し、為信は利家に伴われて妻子とともに上洛。津軽領の領有が豊臣政権に認められたのである。
この間、利家は、自身が「叛逆之族」と断じた津軽為信と間近に接して、どのようにその人物を見たのであろうか。
■利家が家康へ助言「津軽為信は信頼できない」
文禄元年(1592)、津軽為信や南部信直、そして秋田(安東)実季は、肥前名護屋にいた。いわゆる朝鮮出兵のために、在陣していたのである。名護屋は当時、奥羽の大名たちにとって、戦国期の戦闘状態を清算する場としても機能していた。例えば、その年の12月、南部信直は、前田利家の仲介で、長らく抗争を続けてきた仇敵・秋田氏との関係を修復することに成功した。
為信も、名護屋在陣中に、徳川家康へ仲介を依頼し、南部氏との和解を望んだ。だが、ここで、前田利家は家康に、為信は「表裏仁(ひょうりのじん)」であるから、気を付けるようにと、助言したのである。
「表裏仁」とは、裏表のある信頼できない人物という程度の意味である。
「津軽仕置」から上洛にかけて、利家は、為信という人物をじっくりと観察できたはずである。その観察から導き出された評価が、「表裏仁」なのであれば、自然、利家は為信と距離をおいたはずである。さらには、利家周辺の人々も、為信に対して利家にならった対応をとるようになったであろう。
翌文禄2年、南部信直は、名護屋から国許へ送った書状で為信の状況を記した。
それによると、為信は、利家を訪問した際、しつこくものを言ったので、前田家の重臣・奥村主計にやり込められて恥をかき、その後、利家とも、浅野長吉(長政)とも付き合いがなくなったという。
為信は、ここでも利家との関係を悪化させてしまい、さらには、利家と深い関係を持つ、浅野長吉との関係悪化を招いてしまったのである。これは、豊臣政権の中枢を形成する有力者との関係を悪化させ、さらには、政権内での津軽家の立場を危ういものにする危険性を持った出来事だった。
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■「なふり心」と石田三成
津軽為信が惣無事令違反の処罰回避のために、鷹の献上を積極的に行ったことを先述した。具体的なことはわからないが、その際、石田三成も津軽家のために、積極的に動いたのではないだろうか。
三成へのその後の津軽家の傾倒ぶりを考えると、津軽の領有を認められたときと、頼みとするはずだった前田利家との関係が絶望的なものとなったときに、手を差し伸べたのは、三成だったように思われる。
三成は、為信の長子・信建の元服を取り計らい、おそらくは太閤蔵入地(惣無事令違反を回避した際に津軽領に設定されたと考えられる豊臣政権の直轄地)の経営における指導や助言を為信に対し行っただろう。それにより、二人はお互いを理解していったのではないだろうか。
先にみた、為信が前田利家との関係を悪化させた事件を南部信直が述べた書状には、「上方の衆は、遠国の者をとにかく、「なふり心候(なぶるものである)」ともある。その状況を、もっとも身に染みて感じたのが為信であることは、利家との関係からも間違いはないだろう。
そして、まったくの想像だが、石田三成は、為信に対して、「なふり心」を持たずに接した人物だったのではないだろうか。
利家の為信に対する態度や人物評については、為信自身の身から出た錆というところもあるが、司馬遼太郎が『北のまほろば』で述べているように、「伊達政宗や毛利元就ほどの悪謀のぬしでもなかった」程度の謀略家である為信に対するには、評価が辛すぎるように思えるのである。その中には、利家自身も気づいていなかったかもしれないが、どこかに、遠国で生まれた怪異な風貌や、ものいいのしつこさに対する「なふり心」が潜んでいたのではないだろうか。
そもそも、津軽為信という人物は、「表裏仁」と前田利家が断じただけの人物ではなかったはずだ。それは確かに為信の側面のひとつではあるが、それだけではなかった。そうでなくては、後に、石田三成の遺児を匿うなどという、自己を危険に晒(さら)すような行動を起こすはずがないのである。
■三成の子供たちを庇護したのは津軽人の愛情か?
ここで、思い起こされるのが、太宰治の『津軽』での印象的なエピソードである。太宰を家に招いた蟹田町の病院の事務長Sさんは、「津軽人の本性を暴露した熱狂的な接待」で太宰を出迎える。同じ津軽人であるはずの太宰ですら面くらうほどの、怒涛の接待は、読めば思わず笑いだしてしまうほどの行き過ぎた無茶苦茶なものだが、太宰は「その日のSさんの接待こそ、津軽人の愛情の表現なのである」としている。
「ちぎっては投げ、むしっては投げ、取って投げ、果ては自分の命までも、という愛情の表現」、「どうしたらいいかわからなくなって」噴出する怒涛のような愛情表現は、そのまま「津軽人の愛情」そのものであろう。そして、三成が敗れた瞬間から、津軽家の面々に、恩義を受けた三成への「津軽人の愛情」の発露があったことが、その後の行動からは感じられるのである。
その時、津軽為信は、東軍の一員として出陣し、勝利者の側に居た。同時に、その状況を覆すような、三成の遺児を匿うという行動を起こしていたのである。
後に、本多正信が、出家していた三成の子のひとりを、「三成の子の坊主の一人や二人助けてやってもよい」と、助命した話が『東照宮御実記』に収録されている。だが、津軽家が三成の遺児を匿った時点では、そのような寛容を示している余裕は徳川家にはなかったし、何より、本多正信が許したのは、出家した息子だった。
もっとも、三成の遺児を津軽へ落ち延びさせたのは、大坂に居た津軽信建の独断だったのかもしれない。だが、為信はその後も、三成の遺児が、津軽に居る状況を変えることをしなかった。前田利家が断じたような「表裏仁」であれば、おそらく、早々に三成の遺児を徳川家に差し出していただろうに、それをすることはなかったのである。
そうした津軽為信の行動からは、石田三成との関係が、前田利家との関係とはまったく異なっていたことを推測させる。吹けば飛ぶような辺境の小藩ではあるが、津軽為信をはじめとする津軽家の面々は、石田三成という人物に感じた「津軽人の愛情」によって、その危険性を顧みることなく、三成の遺児を庇護し、さらには自分の一族の中に加えていくのである。
「果ては自分の命までも」という、危険性を顧みない「津軽人の愛情表現」は、3代藩主となる津軽信義や、4代藩主・津軽信政の代に、寛文蝦夷蜂起鎮圧のために軍勢を率いて津軽海峡を渡った杉山吉成へとつながっていった。二人はともに、三成の孫である従兄弟どうしだった。こうして、石田三成の血統は、最果ての津軽弘前藩に受け継がれていったのである。
文/小石川透(弘前市文化財課)