文・写真/賀茂美則(海外書き人クラブ/アメリカ、ルイジアナ州在住)
1967年7月29日、カナダ、マニトバ州ウィニペグ。目の前にあるのは135kgのバーベル。全身のバネを使い、一気にバーベルを引き上げる。見事に成功し、満面の笑み。プレス、スナッチ、ジャーク合計352.5kg、日系三世のウォルター・イマハラが重量挙げパンアメリカン大会フェザー級のチャンピオンになった瞬間である。
ウォルターはアメリカの深南部ルイジアナには珍しい日系三世。1937年2月、カリフォルニアの裕福な農家に生まれ、ピアノのある家と広大なイチゴ畑にぶどう棚、庭には鶏が放し飼いになっている何一つ不自由のない生活を送っていた。平和な生活は1941年12月を境に一転する。真珠湾が日本軍の機動部隊によって攻撃されると日系人に対する差別が激しくなり、翌年、西海岸に住む日系人は収容所に送られることになる。アメリカ生まれの3世で、日本語は覚束ないアメリカ国籍のウォルターもその一人だった。両親と7人のきょうだいとともに最初にあてがわれたのはフレスノ市にある馬小屋だったという。その後、そこで生まれた妹を含む家族10人とともに南部、アーカンソー州の日系人収容所に移動。やんちゃなウォルターは「収容所は楽しかった」というが、鉄条網と銃を手にした監視兵に囲まれたバラック住まいは両親にはこたえたに違いない。
立ち退きを迫られた土地や家屋はただ同然で手放したので、終戦後、一家は一文無しであった。全てを失ったカリフォルニアには戻らず、「人種差別が少ない」と人から聞いた隣のルイジアナ州に移住したのが運の尽き。父親が小作農や庭師として生活しようにも、雇ってくれるのは似たような立場のユダヤ人だけだったという。食べるものにも欠き、まさに地面に這いつくばるような貧困生活の下、他の日系人が皆退散する中、プランテーションで住み込みの庭師などをしながら何とか生き延びる。「財産は取られても教育は取られない」という母親の信念で、9人の子どもたちは全員が大学に進学したが、ウォルターの長姉は1足の靴を大学の4年間履き続けたという。
ウォルターも篤志家の援助で地元の大学に進学したが、そこで重量挙げを始める。後ろ姿を見たコーチが、当時重量挙げの第1人者、オリンピックで金2、銀1を獲得し、世界選手権6連覇を果たした日系のトミー・コウノと体型がそっくりだというだけの理由でスカウトしたという。ウォルターは身長163cmと小柄ながら、天性のバネを生かしてすぐに頭角を現し、30歳で南北アメリカ大陸のチャンピオンに登りつめたのだ。ウォルターはその後も2005年に68歳で引退するまでマスタークラスで重量挙げを続け、全米チャンピオン25回、世界チャンピオン9回、数多の全米・世界記録を塗り替え、世界重量挙げマスタークラス連盟の会長も務めた。
イマハラ家は教育と共にアメリカ合衆国への貢献を家是とし、ウォルターと3人の弟は全て軍隊に志願した。すでに重量挙げで名を成していたウォルターは陸軍でも厚遇されたという。駐留していたドイツのミュンヘン郊外の基地で、軍属の子どもたちの学校で先生をしていたカリフォルニア出身のスミを見初めて結婚、3年の兵役を終え、スミを連れてルイジアナに帰還した。
家族は相変わらずの貧乏暮らしではあったが、両親は造園業の基礎を固めていた。大学で造園学を専攻したウォルターが兵役から帰還した後、一家で当時は珍しかったガーデンセンターを開いたところ、ウォルターの人懐っこい性格も幸いして大当たり。並行して続けていた庭師業も商業施設の造園、管理を任されるようになり、地元バトンルージュ市で二つ目のショッピングモールや、総面積27万坪という巨大な生医学センターの造園を任されるようになる。ウォルターには子どもがいなかったので、造園ビジネスは姪が継いでいる。
父親のジェームスは戦中に強制収容され、全ての財産を奪われたことでアメリカ政府に対する怨念があったようだが、引退後はルイジアナに豊富にある糸杉で作った板に俳句やことわざなどを彫るのを趣味とし、晩年はキリスト教に改宗し、アメリカ政府に対する思いも変わってきたという。1977年、ジェームスは、戦前、日系人コミュニティの中心として活躍した功績で勲5等瑞宝章を授かることになる。その授与式のため、ウォルターと共に初めて来日。一家の故郷である広島でジェームスの叔父にあたる今原佐五郎氏の墓石を確認した。
2004年、仕事から引退したウォルターは「今までは人のために作って来たが、今度は自分の庭を作りたい」と言いだし、郊外に66,000坪の荒地を購入し、数年かけて南部で最大級の日本庭園を作り上げ、収容所の資料とジェームスの木彫りを展示した博物館とともに、一般に公開するようになった(https://www.facebook.com/pages/category/Garden-Center/Imaharas-Botanical-Garden-196241663719744/)。9人のきょうだいを表す9つの池と、家族の源である日本の象徴、富士山のミニチュアもブルドーザーで造成し、鳥居もある、本格的な大庭園である。2018年、維持が難しくなったのでこの大庭園を売却した後も、近くのプランテーションの一角に2,500坪と小ぶりの日本庭園を作ってしまった。
この庭の一角、日当たりの良い場所に置かれているのは広島から船に乗せて輸送してきた今原佐五郎、及び今原家一族の墓石である。
文・写真/賀茂美則 (アメリカ、ルイジアナ州在住)ルイジアナ州立大学社会学部教授・学部長 総合商社勤務の後、渡米。1989年、ワシントン大学で博士号を取得し、現職。社会学、家族、スポーツなど幅広い分野で書籍、コラム、記事を執筆。海外書き人クラブ会員(https://www.kaigaikakibito.com/)。