文・写真/杉野美穂子(海外書き人クラブ/アメリカ在住ライター)
『咸臨丸』、幕末の歴史で登場する船の名前です。1860年日米修好通商条約の批准書交換で、アメリカ軍艦ポーハタン号(USS Powhattan)の護衛艦として、3本マストと西洋式スクリュー付きの、当時としては超ハイテク最新鋭の軍艦が、日本海軍の威信をかけた遠洋実習として2月9日浦賀を出港します。
日米合わせて107名の乗組員が、本船よりひと回り小さな船で太平洋に乗り出しました。最初は冬の嵐の連続でしたが、その後は穏やかな航海で石炭の消費も少なく本船より10日早くセントパトリックデーにサンフランシスコ港に到着しました。
その足跡の一つが「咸臨丸入港百年記念碑」です。
サンフランシスコ・リンカーンパークに、1960年大阪市からサンフランシスコ市に寄贈された石碑で、土台の石は瀬戸内海塩飽諸島名産の庵治石、そして御影石には大阪市長の署名が入り、石碑周囲には濡れると美しい青緑色になる青砥石でできています。
市立図書館のマイクロフィルムには到着した時の記事が1860年3月18日の一面に掲載されています。
不鮮明ですが歓迎されている内容で咸臨丸の足跡をたどることができます。「Kanrin-Maru」 を「Candinmarruh」と書いてあり、発音は「カンディンマル」となります。
サンフランシスコでの熱烈歓迎中、軍艦奉行・木村摂津守は帰路に備え長旅で傷んだ船の修理を申し出ます。
密かに家宝を売ってお金を持って来たとあり、値段交渉などは一切なかったと思われます。
咸臨丸の修理は、サンフランシスコからフェリーで約1時間のバレホ市(Vallejo)にある米国海軍基地メアアイランド(Mare Island)で行われました。
海軍基地だったので似たようなレンガの建物が数多く看板が無ければ見逃すほどの外観ですが現在メアアイランドミュージアム(Mare Island Museum)として一般公開されていています。 入館料は大人10ドルです。
【Mare Island Museum】
住所:1100 Railroad Ave Vallejo, CA 94592
http://www.mareislandmuseum.org
お世辞にも賑わっているミュージアムではないのですが、訪れる方にはここでどうしても見たい物があるんだという「わざわざやって来た感」があり特別な思いで来られている、すごくニッチなミュージアムです。
旧ソビエト冷戦時代までカリフォルニア州は太平洋の海岸線を守る重要拠点だったので軍関係の施設が沢山あり、現在そのほとんどはミュージアムやライブラリーとして一般公開されています。
元作業所だった所に間仕切りした展示スペースと大広間になっていてパーティー、イベントも開かれます。
職員の方に「カンディンマル」と言うとすぐ案内してくれました。
間違いなく咸臨丸(Kanrin Maru)はここで修理されたそうです。
2010年、咸臨丸入港150周年記念に乗組員の子孫の方達が帆船・海王丸に乗ってサンフランシスコにやって来た際、所縁の地としてここを訪問しています。
子孫の方々も咸臨丸と同じように一か月かけて来られたのです。
ミュージアム裏手にドッグがあり咸臨丸はここで修理されていると職員の方が教えてくれました。
静かな水面の向こう側が海軍基地だった所です。
日本で最初の外洋航海で、名誉ある渡米水夫として咸臨丸に乗り組んだ方の中で三人がサンフランシスコで病死されているのは忘れてはなりません。
その方達が眠っているのはサンフランシスコから車で20分ほど南にあるコルマ(Colma) の日本人共同墓地(Japanese Cemetery)です。慈恵会のお陰で美しく管理されています。
住所:1300 Hillside Blvd Colma, CA 94014
左側のお墓が (平田)富蔵之墓『日本海軍咸臨丸之水夫 讃岐国塩飽佐柳島 富蔵墓』Tome- Tzo March 30 1860
右側が(岡田)源之助之墓『日本海軍咸臨丸之水夫 壱岐国〇〇青木浦 源之助』Gin No Ski 25才 March 22 1860
そして、真ん中の一番大きいお墓の表に『ME NAY KEE TCHEE』と刻まれ5月20日に亡くなったとあります。
長崎海軍伝習所の一期生、日本で最初の機関兵(火夫)だった峰吉さんのお墓です。
蒸気船にとっては罐焚き技術は大変重要な事、帆走できない燃料もないではどうにもなりません。幸いな事に最初の数日間以外ほとんど帆走できたのですが、出港直ぐに悪天候に見舞われました。海水は船底の水夫部屋まで流れ込んで来たのです。
当時日本の衣類は水夫であっても木綿、持ち込んだ布団も木綿で床に直に敷いていました。嵐によって濡れてしまった木綿は乾きにくく船底では日光も当たりません。そんな中、峰吉さんは船内に蔓延していた熱病に冒されてしまいました。
嵐が過ぎ去り、帆走中は機関兵は任務もなくなります。空気の流れが悪い湿った船底の水夫部屋にこもりがちな峰吉さんの症状は悪化してしまいました。穏やかな天気が結果的に峰吉さんの命を奪う事になってしまったのです。
持ち場は違いますがこの三名は皆この熱病で亡くなっています。
さらに、源之助さん、富蔵さんが亡くなった時、咸臨丸は停泊中で、墓石には勝海舟が書いたと言われる漢字の名前もありますが、峰吉さんが亡くなったのは咸臨丸の出航の後、居残った水夫達では墓石に名前を書けるはずもありません。
初代サンフランシスコ総領事チャールズ・ブルークス氏の尽力で英語のみですが『日本皇帝の命に依って建てた』と前の二人の『海軍将官の命』と破格の扱いなのがせめてもの弔いです。
そして所縁の場所の最後は到着した桟橋です。
バレホピア(Vallejo Pier)と呼ばれていた桟橋9番です。 ここには2010年咸臨丸入港150周年記念のプラークが歩道の一角に埋め込まれています。
住所:9 The Embarcadero San Francisco, CA 94111
アジアからの船は街外れの桟橋を利用していましたが、批准書を携えての訪米である咸臨丸は、街の中心に近い北側の桟橋に錨を下ろしました。
幕府の御公儀の特命を受け遥か8,200㎞の海を越えてやって来た咸臨丸ですが、出港後に航路を変更しホノルルに寄らずサンフランシスコに到着できたのはウールを纏ったアメリカ海軍のセーラー達がいたおかげでした。ウールは濡れると目が詰まってフエルトのようになり保温してくれます。嵐の中でも十分作業ができたのです。その結果日本国海軍の栄光を日本の歴史に名を残す事ができた咸臨丸でした。
しかし、船底で高熱に苦しむ水夫達にとって、もしホノルルに寄っていたらそこで治療が受けられたかもしれません。その時ハワイ王国の医療事情はどうだったのでしょうか? 実質的指揮官・米海軍ジョン・ブルック大尉が最終決定した航路変更の理由は何だったのでしょうか? 今となっては、わかりません。近くて遠い幕末の歴史です。
文・写真/杉野美穂子(アメリカ在住ライター)
1995年米西海岸バークレーに留学後2003年にサンフランシスコに引っ越し、旅行業務に携わり視察、調査などを請け負う。栄養士の知識も活かしサンフランシスコのライフスタイルの記事を寄稿中。海外書き人クラブ会員(http://www.kaigaikakibito.com/)。