文・写真/羽生のり子(海外書き人クラブ/フランス在住ライター)
スペイン国境に近いピレネー・オリアンタル地方の奥深い山の中に、美しい修道院がある。11世紀に北カタルーニャで初めてできたロマネスク建築で、何度も崩壊の危機に遭いながら、信徒の努力で蘇った、千年の歴史のあるサン・マルタン・デュ・カニグー修道院(Abbaye Saint Martin du Canigou)だ。
下の村から僧院まで一般車両は通行禁止で、徒歩で急な坂道を45分登らなければならない。道はきれいに舗装されているので足への負担は少ないが、延々と続く曲がりくねった坂道を歩いていると、僧院にたどり着くのも修行のような気持ちになる。やっと登った山頂は見晴らしが良く、20世紀初頭まで温泉地として栄えたヴェルネ・レ・バン(Vernet-les-Bains)が眼下に見える。
僧院の名前に入っている「カニグー」は、てっぺんがギザギザの標高2784メートルのカニグー山のことで、カタルーニャの聖なる山だ。「カタルーニャの富士山ですよ」と、現地の人が教えてくれた。僧院はカニグー山の山塊の岩の上に立っている。僧院の敷地内にホタテ貝の印があることから、サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路上にある巡礼地でもあることがわかる。
修道院は、カタルーニャの初代君主ギフレ1世のひ孫で、カタルーニャ内の一地域であるサルダーニャを統治していたギフレ2世が1007年に建て、1009年にギフレ2世の弟で司教のオリバが聖別した。建てたのは、ギフレ2世が怒りに任せて甥を殺したことの償いのためだった。サン・マルタンの名前がついているのは、その場所にすでに聖マルティヌス(316-397)(フランス語読みでサン・マルタン)を奉じた教会があったことに由来している。
修道院の一角に、聖マルティヌスの有名な逸話を彫った像がある。ローマ帝国の属州だった今のハンガリーの町で、ローマ軍の高級軍人の息子として生まれたマルティヌスは、父と同じく軍人になったが、ガリア(今のフランス)のアミアンを通った時、冬なのに半裸の物乞いに出会い、自分が着ていたマントを切って与えた。マントはローマ軍のものなので、全部を与えるわけにはいかなかった。その夜、物乞いに与えたマントを着たキリストが現れた。マルティヌスは約20年後に退役してから、キリスト教の聖職者として生涯を全うした。「分かち合いの精神」の象徴として語られるマルティヌスはヨーロッパで広く知られた聖人だ。
僧院建築に協力したギフレ2世の弟オルバは、ベネディクト派の僧だったので、ベネディクト派の修道院になった。
通常、僧院には70人~150人の僧がいるが、ここは小さく、30人しかいなかった。1428年にこの地方を襲った大地震で、屋根と鐘楼が崩れ落ち、修道院は次第に寂れていった。フランス革命の10年前の1779年には病気で老いた5人の修道士しかおらず、あとを継ぐ若い僧がいなかったという。1783年、続けられないと判断した修道士たちは僧院を離れる許可を得て、僧院を放棄した。僧院はフランス革命政府が没収し、その後、一個人に転売したが、建物の石が持ち去られ放題になり、僧院は荒れるばかり。本格的な修復が始まったのは、「カタルーニャ・ルネッサンス」と言われる、文化と言語の復権運動が起きた20世紀初めになってからだ。1902年にペルピニャンの司教が廃墟化していた僧院を買取り、カタルーニャ人たちに蘇らせようと呼びかけたところ、2000人もの意気に感じた人たちが、聖マルティヌスの日(11月11日)に僧院に集まった。
修復は30年続き、かなり状態が良くなったが、1932年に司教が没した。その20年後の1952年、ベネディクト派の大きな修道院にいたベルナール・ドゥ・シャバンヌ修道士がこの僧院を気に入り、移住して修復を引き継ぎ、1982年に完成させた。高齢となったシャバンヌ修道士は元の僧院に戻り、そこで没した。ベネディクト派にはシャバンヌ修道士のあとを継ぐ僧がいなかったので、1976年にフランスにできたカトリックのグループである「べアティテュード共同体」が、僧院での宗教生活と観光客への対応を1988年から任されている。この共同体では、僧も家庭を持つ既婚者も共に宗教生活を送る。現在、修道女8人、修道士4人のほか、カップル1組、独身者2人がいる。訪問日に院内を案内してくれたパスカル・ドゥ・サガザンさんは夫と子どものいる既婚者で、僧院ではなく麓の村に住んでいる。
サガザンさんは、回廊と地下の礼拝堂、地上階の礼拝堂を案内してくれた。釣鐘のある塔の中にも礼拝堂があるが、塔内は見られない。中庭をめぐる回廊には、中世の柱が残っている。
禁欲生活を送る僧院なのに、なぜか上半身裸で腕を上げた女性とヒゲの男性が彫られている。女性は、踊りの褒美に欲しいものを与えると義父ヘロデ王から言われ、洗礼者ヨハネの首が欲しいと言った新約聖書に出てくるサロメ、ヒゲの男性はその願いを聞き入れた義父のヘロデ王だ。サガザンさんは「サロメはキリスト教の大罪(罪源)の中の色欲を表している」のだという。
口が小さく耳が大きい僧が並んでいる柱もある。こちらは「神の言葉を聞く」という使命を修道僧たちに思い起こさせるため。聞くためには口を閉じなければならないからだ。
地下の礼拝堂は天井が低く、がらんどうだ。礼拝堂というにはあまりにシンプル。椅子装飾もないので、現在はほとんど使っていないのかもしれない。
地上階の礼拝堂は意外に小さい。石柱には素朴な模様が彫り込まれている。こちらも装飾はほとんどない。壁も天井も柱も、ずっしりと石の重みを感じる礼拝堂だ。
ギフレ2世は7人の子どもが成人してから僧になり、この修道院で14年の余生を送った。その間、御影石を自ら掘って、敷地内に自分が死んだ時の墓を用意した。隣には妃の墓を作った。償いのために作った僧院によほどの思い入れがあったのだろう。遺体は僧たちが僧院を離れた時に麓の村の教会に移したが、フランス革命の時に荒らされ、どこに行ったかわからないという。
独立か否かで、スペイン側のカタルーニャは揺れている。フランス側では独立の話はないが、同じ文化圏の絆は、国境を超えて繋がっている。サン・マルタン・デュ・カニグー僧院は、2つの国に分かれてしまったカタルーニャの人たちが心のよりどころとする歴史遺産だ。
サン・マルタン・デュ・カニグー修道院サイト
https://stmartinducanigou.org/fr
文・写真/羽生のり子(フランス在住)
1991年から在仏。食・農・環境・文化のジャーナリスト。文化遺産ジャーナリスト協会、自然とエコロジーのためのジャーナリスト・作家協会、環境ジャーナリスト協会会員(いずれもフランス)。海外書き人クラブ会員(http://www.kaigaikakibito.com/)。