文・写真/羽生のり子(海外書き人クラブ/フランス在住ライター)
強烈な敗戦の記憶を残した第二次世界大戦に比べ、日本人にとって第一次世界大戦の印象は薄い。しかし、ヨーロッパでは激戦が繰り広げられ、多くの死傷者と捕虜を生んだ。フランス東部の町、ヴェルダンにあるヴェルダン戦場記念館では、12月20日まで、死傷者の陰で見落とされがちな捕虜が700万人もいたことに焦点を当てた展覧会を開催中だ。悲惨かと思いきや、第二次世界大戦中の捕虜に対する扱いからは想像できない生活が浮かび上がってくる。
第一次世界大戦の非道さを描いた小説として有名なのが、ドイツの作家、エーリヒ・マリア・レマルクの「西部戦線異常なし」だ。ヴェルダンはベルギー南部からフランス北東部にかけての「西部戦線」上にある。1916年の10か月の戦闘で70万人もの死傷者が出た町だ。戦争の傷と記憶を残すため、1967年に戦場記念館ができた。2016年に増築改装し、今の建物になった。
ここで開催中の「700万人もの捕虜がいた!」展は、捕虜のデータベースを保管しているスイスの国際赤十字本部の協力を得て実現したものだ。戦場で捕虜となった瞬間から、捕虜収容所での生活、帰還までを、ヨーロッパだけでなく北アフリカまで広げて豊富な写真と資料で見せている。戦争中立国スイスに本部を置く赤十字の役目は、捕虜の身元を確認し、国に残った家族に連絡を取ることでもあった。連合国(フランス、イギリス、ロシア、日本など)側、中欧同盟国(ドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国、ブルガリア、オスマン帝国)側とも、敵国の捕虜の扱いを非難していたので、実際に収容所を訪ねて確認し、どちらの側も同等の扱いをすることを課すのも赤十字の大きな役割だった。なお、本展での「捕虜」は捕虜になった兵士を指している。敵方に囚われた民間人の非戦闘者は含まれていない。
捕虜を作るには2つの方法があった。一つは部隊を丸ごと捕らえることで、東部戦線で多く実行され、これによって一挙に捕虜の数が増えた。もう一つは特に塹壕戦で多く、前線に行ってわざと敵兵を捕虜にすることだった。この場合は情報収拾が目的なので、数は少なくてもよかった。フランス軍の大尉クラスの軍人は、捕虜から敵の情報を得るための「尋問心得」を所持していた。
【次ページに続きます】