文・写真/晏生莉衣

1990年代前半、壮絶な民族紛争が繰り広げられたボスニア・ヘルツェゴヴィナ。この内戦では、約20万人の死者と200万人以上の避難民を出したといわれている。「民族浄化」という言葉が、国際報道で繰り返し使われたことをご記憶の方も多いだろう。

現在のボスニア・ヘルツェゴヴィナは、東欧の美しい観光国として復興を遂げている。過去の紛争の歴史にまつわる影の部分と、甦った情緒豊かな異文化混在の風景という光の部分。そのどちらにも関心を惹かれて、各国から多くの旅行者が訪れている。今回は、過去の紛争に関連したひとつの地を紹介したい。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ

内戦以前の1991年の人口統計では、首都サラエヴォの人口は約36万人。そのうち、当時、ムスリムと呼ばれていた住民が約50パーセント、セルビア系が26パーセント、クロアチア系が7パーセント、どの民族かあえて選ばない「ユーゴスラヴィア人」が13パーセント、「その他」4パーセントという人口構成だった。

セルビア系武装勢力に包囲されたサラエヴォ

内戦が始まると、サラエヴォはあっという間に丘陵地帯を支配したセルビア系武装勢力に包囲された。このサラエヴォ包囲により、街に取り残されたセルビア系以外の住民は、外部との接触の道を絶たれた上に、物資の供給が途絶えて困窮した生活を余儀なくされた。

そんな苦境が続く中、なんとか外部とのアクセスを確保しようと、政府軍兵士と有志がトンネルを掘った。完全包囲されてそのうち息途絶えると思われたサラエヴォ市民たちが、終戦まで、生き延びることを可能にした要因のひとつが、このトンネルの存在だった。今でもその一部が保存され、War Tunnel(戦争のトンネル)と呼ばれて一般公開されている。

車でサラエヴォの旧市街から約30分。なんの変哲もない野原が広がる一帯に建つ一軒の民家の脇に、大きな青地の国旗と、1992年独立時の黄色いユリ模様の旧国旗が並んで立っている。民家の外壁には、あえて修復せずに残してあるいくつもの大きな砲弾の跡が目につく。

この民家の地下にトンネルの入り口が掘られた

この民家の地下にトンネルの入り口が掘られた

トンネルはセルビア系武装勢力の攻撃にさらされないために、当時、国連の平和保護軍が管理していた空港の下に作られた。この民家の地下室を一方の入り口とし、セルビア系勢力による包囲の外の地域につながる空港の反対側にもう一方の入り口を設置して、全長800メートルの双方向から、ショべルとつるはしと手押し車を使った人力作業の突貫工事で掘り続けられた。工事が開始されてから双方の作業者が地下で顔を合わせるまで、約4か月かかったという。

今は博物館になっている民家の地下室には、そうした作業に使われた道具が展示されている。その他、負傷した人を運搬台に乗せて運ぶ兵士や、台車に積まれた武器などの複製がディスプレイされている。トンネルを使って運ばれたのは食糧や生活物資、医療品だけではなく、人や武器も運ばれたのだ。さらに、このトンネルに電話線や電気ケーブル、石油を通すパイプラインまで引いたおかげで、限られてはいたが、重要施設でそうしたインフラを使うことができた。

負傷者もトンネルを通って運ばれた

負傷者もトンネルを通って運ばれた

このように、トンネルには生活面や軍事面での重要性があったわけだが、それだけではない。サラエヴォ在留の欧米諸国の大使もこのトンネルを通ったし、平和会談に向うために、イゼトベゴヴィッチ初代大統領がこのトンネルを使ってサラエヴォを抜け出したというから、政治的にも重要な役割を果たしたのだ。もっとも、大統領は自分で歩くことはなく、専用台車に載せられた椅子に座って移動したそうだ。博物館にはその椅子も展示されている。

大統領を運んだとされる椅子

大統領を運んだとされる椅子

残っているトンネルの一部を歩いてみたが、高さ1.5メートル、幅1メートルのトンネルの内部は、自分にとってはさほど歩きにくいものではないが、長身の人が重い荷物を背負って800メートルを通り抜けるのはかなり困難な作業だっただろう。実際、頭をぶつけて大怪我をする人も多かったという。床部分には台車のためのレールが敷かれているので、レールにつまずかないようにする注意も必要だった。

今は入場者のために内部のところどころに照明があるので、前方も足元もよく見えるが、当時は通行人自身が持ち運ぶランタンだけが頼りだったというから、孤独な闇との格闘でもあった。

保存されているトンネル内部。当時、照明はなかった

保存されているトンネル内部。当時、照明はなかった

秘密裏に作られたトンネルだったが、人の口から口へと伝わって、その存在が公然の秘密となると、セルビア系武装勢力がトンネルの入り口と思われる場所に狙いをつけて攻撃し始めた。トンネルに入るのを待つ人々の列を砲弾が襲い、十数人が死傷した。

博物館の敷地には「サラエヴォ・ローズ」と呼ばれている赤いバラのような模様が、いくつか地面に描かれている。サラエヴォ・ローズとは、サラエヴォのコンクリート地面に残された被弾の跡を、そこで死傷した人々に思いをよせて赤い樹脂でバラの花を描くように舗装したものだ。ここにあるサラエヴォ・ローズは、そうした砲弾による犠牲者を悼んでいる。話には聞いていたが、実際にコンクリートに散った赤いアートのような花模様を目にすると、そこで倒れた人たちの姿が想像されて痛々しい。

「サラエヴォでは1万1541人が殺され、そのうちの1601人は子どもだった」――― 説明パネルにはそう記されている。

敷地内にあるサラエヴォ・ローズ

敷地内にあるサラエヴォ・ローズ

1995年11月、米国オハイオ州デイトンの空軍基地で、当時のクリントン政権の仲介によって、当事三か国の大統領、すなわち、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのイゼトベゴヴィッチ大統領、クロアチアのトゥジマン大統領、セルビアのミロシェヴィッチ大統領が協議を重ねた結果、和平合意が達成されて、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの民族紛争はようやく終結に至った。

サラエヴォの人々の命をつないだトンネルは、和平後にサラエヴォが解放されてその役割を終えると、そのまま放置された。政府も軍もその存在を否定するかのように、大統領にも利用されたこの歴史的なトンネルの保存に興味を示さなかった。手入れがされないトンネル内部は崩れていき、サラエヴォ包囲の歴史も記憶も、この貴重な遺物とともに消え去る運命が待っていた。

トンネルの入り口を提供した民家に住む家族が保存に乗り出した

そんな時、保存に乗り出したのが、トンネルの入り口を提供したこの民家に住む家族、コラル一家だった。過酷な掘削作業をする人たちに貴重な飲み水を提供して世話をし続けたこの家族は、トンネルの歴史的価値を誰よりも理解していた。一家はトンネルの入り口と一部を残すとともに、すべて自費で家の内部を改造して、様々な資料を集めて展示し、多くの人たちにサラエヴォ包囲について知ってもらえるように博物館を作った。それが「トンネル博物館」の始まりだ。

自宅を提供したコラル一家

自宅を提供したコラル一家

しかし、その後、国に対してトンネルの保護を求める声が高まっていっても、政府は何の行動も取らなかった。保存しようとする動きにセルビア系政治家が常に反対し、何も決めることができなかったのだ。

2010年になって、ようやくサラエヴォ県がトンネル博物館全体を正式な保護遺産の対象とする決定をし、2013年、トンネルはサラエヴォ県に正式に移譲された。新たにつけられたトンネルの名前はTunnel of Hope ――希望のトンネル。民族紛争の悲惨さではなく、生きる希望を持ち続けたサラエヴォの人たちの不屈の精神を象徴する史跡にしたい。そんな思いが新しい名に込められているように感じられる。

トンネルについては、同地区を率いた政府軍司令官がトンネルの使用をコントロールし、民間人が通るためには高額の通行料を支払わなければならなかったとか、サラエヴォに運び込まれた物資はブラックマーケットに流されて関係者を益するために使われたとか、ネガティブな一面も語られているが、そうしたことも含めて、包囲下のサラエヴォの困難な日々を広く次世代に伝えていく役割を、「希望のトンネル」は担っている。

文・写真/晏生莉衣(あんじょうまりい)
東京生まれ。コロンビア大学博士課程修了。教育学博士。二十年以上にわたり、海外で研究調査や国際協力活動に従事後、現在は日本人の国際コンピテンシー向上に関するアドバイザリーや平和構築・紛争解決の研究を行っている。

 

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