『サライ』本誌で連載中の歴史作家・安部龍太郎氏による歴史紀行「半島をゆく」と連動して、『サライ.jp』では歴史学者・藤田達生氏(三重大学教授)による《歴史解説編》をお届けします。

文/藤田達生(三重大学教授)

金ケ崎城跡から望む敦賀湾

金ケ崎城跡から望む敦賀湾

今回は、古代以来の京都の北の外港ともいうべき越前と若狭の港町を訪ねる旅である。名古屋から新幹線に乗り、米原から北陸本線に乗り換え、琵琶湖を眺めつつ木之本を過ぎ、賤ガ岳の古戦場跡に思いを馳せトンネルを抜けると、もう敦賀駅に到着である。意外に近かった。

「半島をゆく」スタッフが揃うと、越前の一宮・氣比神宮に向かった。久しぶりに鳥居の前に立つと、金ケ崎城や手筒山城が見通せるばかりか、立派な街道に面しており、かつての町の中心といってよい立地にあることに気づく。

思わず見上げる立派なこの鳥居は、第二次大戦の空襲を免れたもので、国の重要文化財に指定されており、奈良の春日大社や広島の厳島神社の大鳥居とともに「日本三大鳥居」にも数えられている。

越前一宮の氣比神宮

越前一宮の氣比神宮

今回の案内人・敦賀市教育委員会の奥村香子さんのご説明によると、敦賀市域は「けいさん」と市民から親しまれている氣比神宮が鎮座する町の東側地域が、古代以来の中心だったそうである。確かに、当社から港に至るラインが、古来のメインルートとみてよいだろう。

境内を散策すると、金ケ崎城から手筒山城にかけての山並みを借景にしているように感じられた。そうなのである。南北朝時代には宮司の氣比氏治が金ヶ崎城を築いて奮戦したが、北朝方に敗れ一門は討ち死したという。

やはり、一体の関係にあったのである。なお、中鳥居の右手前には「旗掛松」があった。延元元年(1336)に氏治が南朝の後醍醐天皇を迎え、氣比大明神の神旗を掲げた松といわれる。

社殿は、何度も戦火にあい、そのたびに建て替えられた。当社には、多くのいにしえの人々が参拝した痕跡がある。たとえば、俳聖・松尾芭蕉である。境内には芭蕉像と立派な句碑があり、私たち一行も足を止めた。

松尾芭蕉像

松尾芭蕉像

月清し 遊行のもてる 砂の上

『おくのほそ道』の旅の終盤、芭蕉は当社に立ち寄った。名月を鑑賞するためである。敦賀では何句も詠んでいるが、これがもっとも有名なものである。
句中の「遊行」とは、時宗の開祖一遍の弟子・他阿をさす。彼が当社に立ち寄った折、参道がぬかるんでおり、海岸の松原から砂を運んで道普請したことにちなんだものである。芭蕉は、気比神宮を参拝して美しい気比の松原を歩んだのであろう。その折に、この故事を思い出して一句に仕上げたのである。

氣比神宮をゆっくりと参拝した後に、私たちは金ケ崎城跡をめざした。海岸から垂直にそそり立つ山容が特徴的で、市内からよく見通せるランドマークである。城跡の麓には、敦賀港駅跡がある。隣接するモータープールに駐車して、ここから城攻めである。

金崎宮の参道を登る。城跡の麓にある神社で、約400本ものソメイヨシノがあり、市民からは桜の名所として知られているらしい。ここが城内では一番広い場所ということで、それなりの施設があったと思われる。

● 「金ケ崎の退き口」の舞台も敦賀に

金ケ崎城が知られるのは、南北朝期と織豊期の二度である。第一回目が、延元元年(1336)に恒良・尊良両親王を奉じた新田義貞と足利勢との戦いだ。親王らは籠城から半年後、城に火を放ち自害した。金崎宮には、両親王が祀られている。

金ヶ崎城は、南北朝、戦国と合戦の舞台となった。

金ヶ崎城は、南北朝、戦国と合戦の舞台となった。

二度目は、有名な「金ケ崎の退き口」である。元亀元年(1570)4月、朝倉義景攻撃のために織田信長が金ケ崎城を落城させた時、近江の浅井氏の裏切りの報が入ってきた。前方に朝倉、後方に浅井と窮地に陥った信長だったが、しんがりをつとめた木下(後の豊臣)籐吉郎の活躍で、湖西の朽木越えで無事帰京できたという事件である。

これは、後の秀吉の台頭を暗示する武功としてよく知られている。かつての大河ドラマでは、これに徳川家康の手助けのシーンも入れて、秀吉・家康という後の天下人たちの美談とした。実は、明智光秀もしんがりをつとめているのであるが、どういうわけかあまり描かれることはなかった。

現在の城跡は、最終段階の姿をとどめている。私たちは、金崎宮から城跡をめざした。想像以上に厳しい山城である。途中には古墳がいくつもあり、古代以来使用されてきたことを、奥村さんから教わった。

私たちは、ようやく月見御殿といわれる最高所(海抜86m)に到達した。ここは、断崖絶壁の先端に位置する。確かに、月ばかりか敦賀湾も一望でき、御殿のような施設が営まれてもおかしくないと思わせるものがあった。

金ケ崎城の堀切。

金ケ崎城の堀切。

それから、私たちはいくつかの曲輪や大規模な堀の遺構を確認しつつ下山していった。海からの攻撃に備えた天然の要害である。ただし、各曲輪は小規模で居住性は低いといわざるをえなかった。城主は、普段は金崎宮の場所もしくは山麓に居館を構えていたに違いない。

ふたたび敦賀港駅跡である。鉄道は今年4月に廃線になったばかりらしい。かつては、東京の新橋駅から金ケ崎駅(後に敦賀港駅と改称)を経て、鉄道連絡線がロシアのウラジオストクへと向かい、ウラジオストクからはシベリア鉄道を経由してヨーロッパへと通じていた。

これが、1912年に開通したボートトレイン「欧亜国際連絡列車」である。なんと、その駅舎が至近の金ケ崎緑地に復元され、博物館となっている。飛行機が普及していなかった時代、敦賀は北陸ばかりかヨーロッパへの玄関口でもあったのだ。

私たちは、至近の赤レンガ倉庫に入った。奥村さんによると、外国人技師の設計によって1905年に石油貯蔵用の倉庫として建設され、後に軍の備品倉庫や昆布貯蔵庫としても使用されたものだそうである。2009年には、北棟・南棟・煉瓦塀が国の登録有形文化財に登録され、現在はレストラン(南楝)やジオラマ館(北棟)として活用されている。

なかなかしゃれたレストラン街である。私たちはここで昼食を済ませ、ジオラマ館を訪れた。見学できるのは、「ノスタルジオラマ」といって全長約27メートル、最大奥行き約7.5メートルのもので、戦前の敦賀を復元した鉄道と港町の雄大なジオラマである。

確かに、現在の敦賀の地図を見ても、かつての線路跡がうかがわれる。ヨーロッパへの玄関口として鉄道と良港を擁する一大都市だったことが伝わってくる。私は、以前訪れた九州の門司港と似た雰囲気を感じた。

ここも、かつて鉄道と港の結節点として栄えた港町であり、本州ばかりか朝鮮半島へと航路が開かれていた。近代化を牽引した地方都市のレトロな雰囲気には、やはり似たものがある。

文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。

※『サライ』本誌の好評連載「半島をゆく」を書籍化。
『半島をゆく 信長と戦国興亡編』
安部 龍太郎/藤田 達生著、定価本体1,500円+税、小学館)
https://www.shogakukan.co.jp/books/09343442

『半島をゆく 信長と戦国興亡編』 1500円+税

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