歴史作家・安部龍太郎氏による『サライ』本誌の好評連載「謎解き歴史紀行~半島をゆく」。この連載と連動した歴史解説編を、安部龍太郎さんとともに半島を歩く歴史学者・藤田達生先生(三重大学教授)がお届けしています。伊豆半島編第3弾は、鎌倉幕府2代将軍・源頼家が北条氏によって暗殺された修善寺を歩きながら、「幕府」とはいったい何か? を考えました。幕府といえば、「鎌倉幕府」「室町幕府」「江戸幕府」の3幕府が知られていますが、その定説が揺れつつある歴史学界の現況をご案内します。

■鎌倉・室町・江戸だけではなかった「幕府」  

修善寺の温泉街で私たち一行は、地元のボランティアガイド落合早苗さんに懇切な道案内をいただいた。好日のせいでもあろう、修善寺界隈は参詣客が多く、鎌倉幕府2代将軍源頼家(1182~1204年)の墓所へと続く小道も、善男善女で溢れていた。

半島藤田修善寺①

↑参詣客が絶えない修禅寺。地名は寺名とは異なり、修善寺。

頼家は、父頼朝の急死により、弱冠18歳で家督を継いだ。蹴鞠に執心したという彼は、近臣政治をおこなおうとしたが、母親政子やその父北条時政(初代執権)の猛烈な干渉によって挫折した。

結局は、将軍としての役割を十分には果たせないまま、病気保養を口実に修善寺に幽閉され暗殺されたのだった。

半島藤田頼家墓所

↑伊豆の国市観光ボランティアの落合早苗さんの解説で頼家墓所を参る安部龍太郎さんと藤田達生さん。

半島藤田範頼墓所

↑修善寺には、源頼朝の弟で、義経と平家討伐で活躍した範頼の墓所もある。

さらには、頼家の弟として3代将軍になった実朝(1192~1219年)も、政子と北条義時(時政子息、2代執権)に実権を握られ、蹴鞠や和歌に傾倒する(家集として金槐和歌集がある)。そして鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)で行われた右大臣拝賀の際に、甥の公暁(くぎよう。兄・頼家の子)に暗殺された。

このようにして、源氏将軍はわずか3代(正確には親子2代)で絶えたのである。頼朝も妻や舅の口出しに辟易したようだが、その子息たちも悲劇の将軍とよぶにふさわしい。

清和源氏の嫡流である頼朝が伊豆で旗揚げして鎌倉で始まった武家政権であるが、わずか3代で消滅してしまった。その後、源氏将軍は1333年まで復活しなかった。現在では幕府成立の時期をめぐって、以下のような諸説がある。

・頼朝が征夷大将軍になった建久3年(1192年)説
・日本国総守護地頭に任命された建久元年(1190年)説
・公文所及び問注所を設置した元暦元年(1184年)説
・守護・地頭の任命を許可する文治の勅許が下された文治元年(1185年)説
・事実上、東国の支配権を承認する寿永2年の宣旨が下された寿永2年(1183年)説
・頼朝が東国支配権を樹立した治承4年(1180年)説

まさしく百家争鳴状態で、私たちが「いいくに(1192年)つくろう鎌倉幕府」と暗記したかつての通説は、大きく揺れているのであり、教科書のなかには文治元年説を採るものもある。

要するに、「幕府とはなにか」という大問題が問われているのである。

●「幕府」の呼称は江戸時代後期になってから

教科書的には、頼朝は幕府を創設した武家の棟梁ということになっている。鎌倉幕府から江戸幕府までの約650年間もの長きにわたって、東アジアでも特異な将軍による軍事政権が続いたとみるのである。ところが、近年においてはこれをフィクションととらえる新たな幕府論が提起されつつある。

実は幕末まで、征夷大将軍を戴く政権が「幕府」とよばれた事実はない。古くから近衛大将の唐名(とうめい。たとえば太政大臣を「相国」、内大臣を「内府」と呼んだように、日本の律令制下の官職名・部署名を同等の職掌を持つ中国の官称にあてはめたもの)として「幕府」の語はあるが、幕府呼称が一般化したのは江戸時代の後期水戸学の影響によるとする指摘がある。

幕末の水戸学者藤田幽谷(ゆうこく)・東湖(とうこ)父子らが、皇国史観(日本の歴史を万世一系の天皇を中心とする国体の発展・展開ととらえる歴史観)的な立場から、徳川政権があくまで京都から任命された将軍の政府であることを強調するために「幕府」という名称を流行させたのである。まさしく「倒幕」につながるイデオロギーが、「幕府」に込められていたのだ。

近年、このようなイデオロギーとは無縁の学術用語として、あらためて「幕府とはなにか」が問われている。私がみるところ、そのきっかけのひとつは、「堺幕府論」だった。1970年代には、それまで役割を終えたとして注目されなかった戦国時代の室町幕府に関する研究が大きく前進した。

その先鞭をつけたのが、今谷明氏だった。今谷氏は、管領細川氏やその家宰三好氏が足利将軍を擁立し、官僚制度としての奉行人制が幕府機能を再生産していたことを発見した。また将軍に任官することのなかった足利義維(よしつな。第11代将軍足利義澄の次男、第10代将軍足利義稙の養子、第14代将軍足利義栄の父)が事実上の将軍だったとして、その拠点を冠した「堺幕府」論を提起したことも、戦国時代政治史研究の進展に少なからず寄与した。

すなわち、現職の将軍でないにもかかわらず、また京都ではなく和泉堺を根拠地とした義維が「堺公方」「堺大樹」(公方・大樹いずれも将軍の意)と呼ばれており、随行する幕府官僚である奉行人なども現職将軍である足利義晴よりも充実していたことが明らかになったのである。また左馬頭になりながら家督を継げなかった足利義視(よしみ。子息義材を将軍に擁立して実権掌握)も、将軍相当者としての実権を掌握したことが指摘されている。

武家政権の成立は、正確には征夷大将軍任官が画期にはならないのである。前近代においては、ポストと権限が必ずしも同時に付与されるものではないからである。また平氏が初の武家政権だったとして「六波羅幕府」に注目する研究もあるように、源氏の血脈にこだわっていると歴史の本質を見失う危険がある。

■「六波羅幕府」「安土幕府」もあった?

幕府は鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府しかなかったとする硬直した幕府概念に縛られていると、中国・朝鮮すなわち東アジアにおける軍事政権との比較・検討の道を閉ざし独善的な日本特殊論に傾くばかりか、前近代の政治史研究も予定調和的な単線的できわめて貧弱なものになってしまう。

要するに、公家から分離した武家による政権を学術用語の「幕府」とするべきであり、そのトップは、織田信長が平氏を主張し右近衛大将だったように、必ずしも源氏将軍である必要はなかった。いうまでもないが、徳川(新田流得川氏に由来する名字)を称した松平家康も、本来的に源氏ではなかったことは有名である。

たとえば、武家時代を「六波羅幕府」「鎌倉幕府」「室町幕府(含「鞆幕府」)」「安土幕府」「江戸幕府」の流れで考えてみるのもおもしろいではないか。ここには、源平交代説や東国・西国論など興味つきないネタも少なくない。新たな概念の提示によって研究が活性化し、その結果より広く豊かな歴史像が獲得されれば、学問的には十分に成功したといえる。

源氏将軍が暗殺され幕府の実権が執権北条氏すなわち平氏に簒奪された修善寺を歩きながら、「源氏将軍とはなにか」「幕府とはなにか」に思いを致した一日だった。

文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。

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