文・写真/佐竹敦
全国の守護大名が東軍と西軍に分かれ、実に11年も戦い続けた「応仁の乱」。ベストセラーの新書も出てにわかに話題となっているこの戦は、京都の町の大半が焼き尽くされたとされる、日本の歴史上、未曾有の大乱でした。
この「応仁の乱」の主要人物のお墓が、今でも京都市内に残されているのを、ご存じでしょうか?
今回はそんな応仁の乱の主要人物のお墓を訪ねてみました。
* * *
■1:細川勝元の墓
東軍の総大将・細川勝元のお墓は、細川家の菩提寺で「石庭」が世界的にも有名な龍安寺にあります。
勝元は東軍の総大将として畠山政長、斯波義敏、足利義視を支援し、対する畠山義就、斯波義廉、日野富子・義尚母子を支援する山名宗全と抗争を繰り返しました。
勝元の東軍方は、当初こそ幕府を占拠し、将軍義政を擁して山名追討令を受領するなど優勢でしたが、大内政弘が大軍を率いて上洛し西軍方に加わったことによって両軍の勢力は互角となり、戦局は長期化の様相を呈するようになりました。膠着状態が続く中、未曽有の争乱は地方にも拡大、勝敗が決まらないままに、文明5(1473)年3月に宗全が病死、続いて勝元も5月に病死しました。
今に残る勝元の墓は、いつ終わるとも知れない泥沼・底なし沼のごとき未曾有の大乱の一方の総大将だったとは到底思えぬ、皮肉にもとても綺麗な白く澄んだ美しいお墓でした。
【細川勝元の墓】
京都府京都市右京区龍安寺御陵ノ下町(龍安寺)
■2:山名宗全(持豊)の墓
細川勝元のライバル、西軍の総大将・山名宗全のお墓は、南禅寺の塔頭である真乗院にあります。
宗全の西軍は、当初こそ「公方の御敵」とされて劣性でしたが、先に述べたように大内政弘が大軍を率いて上洛し西軍方に加わった結果勢力は互角となり、戦局は長期化の様相を呈するようになりました。膠着状態が続く中、戦乱は地方にも拡大、勝敗が決まらないままに、文明5(1473)年3月に病死しました。
そんな山名宗全の墓は「えっ?これが本当にあの有名な宗全のお墓なの?」と目を疑うほど、質素で小さなお墓でした。
【山名宗全(持豊)の墓】
京都市左京区南禅寺福地町86(南禅寺真乗院)
■3:足利義政の墓
室町幕府第八代将軍・足利義政のお墓は、京都五山第二位に列せられている相国寺にあります。
足利義政は室町幕府の将軍でありながら、凶作・飢饉が続発しても惨禍を顧みることなく、まったくの無為無策で寺社詣や酒宴にあけくれました。見かねた時の後花園天皇が、義政の悪政を諌めるために贈ったという漢詩が残されているほどです。
自らの失政により応仁の乱が勃発しても何ら収拾策を講じることもなく、むしろ以前から続いていた政治からの逃避意識が強まり、栄華風流の世界に耽溺していった義政。洛中最大の戦闘となった「相国寺合戦」の最中にも平然と御所に籠り、側近と華やかな酒宴を繰り広げていたといいます。
そんな足利義政の墓を前にして、「この人が将軍として毅然としたリーダーシップを取っていたならば、もっと違った歴史があったのではないか」と思わずにはいられませんでした。
【足利義政の墓】
京都府京都市上京区相国寺門前町(相国寺)
■4:日野富子の墓
将軍足利義政の正室だった日野富子のお墓は、京都市上京区の華開院にあります。
富子は16歳で義政に嫁し、女子2人を生みましたが、義政の後継者となるべき男子の誕生をみませんでした。このため義政は出家して浄土寺門跡となっていた弟の義尋を還俗させ、名を義視と改めて継嗣としました。
しかし翌年になると、はからずも富子に義尚が生まれたため、将軍継嗣をめぐる富子と義視との対立確執が生じることに。富子は後援者として山名持豊(宗全)を頼り、義視は細川勝元を頼ることになりました。そこに斯波・畠山といった管領家の家督争いもからみ、これが原因となって応仁元(1467)年に応仁の乱が勃発したのです。
そんな日野富子の墓は、夫である足利義政や一人息子である義尚に先立たれた孤独で寂しい晩年を象徴しているかのように、お寺の片隅でひっそりと佇んでいました。
【日野富子の墓】
京都府京都市上京区行衛町440(華開院)
■5:細川政元の墓
最後にご紹介するのは、細川勝元の嫡男・細川政元のお墓です。父・勝元と同じく龍安寺にあります。
膠着状態が続く中、未曽有の争乱は地方にも拡大、勝敗が決まらないままに、文明5(1473)年3月に宗全が病死、続いて勝元も5月に病死しました。
翌年4月にそれぞれの家督を継いだ山名政豊と細川政元との間で和睦が成立しましたが、応仁の乱によって将軍の権威は失墜し、世はすでに下剋上の時代そして戦国時代へと入っていったのです。
そんな渦中で応仁の乱の最後の幕引きをした細川政元の墓を前に、やるせない気持ちや果てしない空しさなど、何ともいえない複雑な気持ちを抱かずにはいられませんでした。
【細川政元の墓】
京都府京都市右京区龍安寺御陵ノ下町(龍安寺)
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以上、京都市内に残る、応仁の乱の主要人物のお墓をご紹介しました。
京都観光といえば金閣寺・銀閣寺・清水寺・上賀茂神社・下鴨神社といった世界遺産などに目が行きがちですが、たまには思考や視点を変えて、往時に想いを馳せながら、歴史の主要人物のお墓巡りをテーマに歩いてみるのはいかがでしょう。きっと違った京都の魅力や歴史に迫ることができます。
文・写真/佐竹敦
日本全国の即身仏・一之宮・五重塔・三重塔・滝百選・棚田百選・国分寺跡をすべて訪ね歩いた一人旅の達人。テレビチャンピオン滝通選手権出場。主な著書に「この滝がすごい!」「日本の滝めぐり」等。テレビ東京の「厳選!いい宿ナビ」のコラム執筆、@nifty温泉の記事執筆等、ライターとしても各メディアで活躍中。