文・写真/吉村美佳(海外書き人クラブ/ドイツ在住ライター)

日本では今年、郵便料金の値上がりが話題にのぼった。手紙を出すことも少なくなった昨今だが、赤い郵便ポストにお馴染みの郵便マークは、逓信省のテとか、アルファベットのTの字に横棒を加えたとか、それなりに知られている。それでは皆さんは、ヨーロッパの郵便マークがどんなものか、意識したことがあるだろうか。

ヨーロッパの郵便マーク

ドイツのポストは黄色。

そしてドイツをはじめ、ヨーロッパの多くの国で郵便マークにホルンが使われている。

ドイツの郵便ポスト。

ドイツの郵便のマークは、ホルンである。

スペインの郵便ポスト。(c)Coco J.

「ヨーロッパの郵便のマークはホルンのマークだ」と筆者はどこかで聞いたことがある。が、ヨーロッパ旅行をしていると必ずしもそうではない。それでも多くの国でホルンのマークが使われていることが気になり、ネットで検索してみると、次の24か国(50音順)の郵便マークがホルンであると判明。ざっと見ただけなので、まだ他にもあるかもしれないが。

アイスランド、ウクライナ、エストニア、オーストリア、キプロス、クロアチア、スイス、スウェーデン、スペイン、スロベニア、チェコ、デンマーク、トルコ、ノルウェー、ハンガリー、パキスタン、ベラルーシ、ポーランド、マケドニア、マルタ、モルドバ、リトアニア、ルーマニア、ロシア

では、なぜホルンなのだろう。

どうやらドイツのバイエルン州にある町レーゲンスブルクに、その秘密が隠されているようだ。

昔の郵便配達事情

識字率も低かった時代、そもそも手紙を書く人は非常に限られており、国王や貴族などほんの一部の人だけが郵便配達を必要としていた。他にも、肉屋や薬屋が商品を届けるそのついでに手紙を託し配達してもらったのだそうだ。「ついで」なので、何週間かたって郵便物が届くということになる。

そこで、郵便を制度化して、手早く配達しようとした人がいた。これがドイツの帝国郵便の歴史と一致するのだが、その当時1490年に遡ってみよう。

神聖ローマ帝国の皇帝フリードリヒ3世は、飛脚の中でも頭角を現したタクシス家を使い、郵便物を運ばせた。イタリアにはそれよりも早く1290年頃からベルガモ飛脚というのがあったが、これは、オモデオ・タッソというタクシス家の先祖によるものである。

1490年には5マイル毎、つまり37.5キロ毎に駅を設け、馬と御者を交代させる仕組みが出来上がった。郵便物を運ぶ馬が駅に到着することを知らせるために、ホルン(郵便ラッパ)が使われた。馬や御者が待機するために用意された施設は、ポスト・ホテルなどという名前で、今でもあちこちに残っている。

この画期的なアイディアにより、馬や御者が休憩をせずに交代が可能となり、食事や睡眠などの余分な時間を省いた結果、郵便物の迅速な配達を可能とした。また中世の町は、城壁に閉ざされているのが普通であったが、城壁の外に交代所があるか、または城壁内部の場合は、ホルンの音とともに城壁を開けるなど、時短に向けた努力が費やされた。

もちろんそれらは全て、ホルンの音を合図になされたのである。

その後フリードリヒ3世に次ぎ、マクシミリアン1世がフランツ・フォン・タクシスに依頼して郵便物を届けさせるなど、トゥルン・ウント・タクシス一家がこの事業を引き継ぎ、独占事業としていった。フランツの考案した郵便制度は、余分な時間を極限まで省いて手紙を最短で目的地まで届けることに注力していた。

この郵便制度の素晴らしさは、郵便物が届くまでの時間を見るとわかるだろう。例えば皇帝が住むブリュッセルからハプスブルク家の住むインスブルックまでの郵便配達に、以前は5週間程度かかっていたが、1505年には5.5日(冬は6.5日)、ブリュッセルからパリまでは44時間(冬54時間)で可能となった。1516年にはインスブルックまで5日(冬は6日)、パリまで36時間(冬40時間)だったそうだ。

ちなみに、戦時中の郵便は、敵の攻撃を受けないように保護されていた。戦略など貴重な情報が手紙で届けられるのだが、もしものために、同じ内容を複数の手紙にしたためることも常識的に行われていたそうだ。ナポレオン軍の指示は、手紙を1通しか出さなかったために情報が的確に伝わらなかったこともあるのだとか。

郵便馬車(宝物館所蔵)。(C)Fürst Thurn und Taxis Zentralarchiv

マクシミリアン1世の死後、カール5世が帝国郵便を受け継いだ。ルートを見直し、必要性がなくなった地区を除外した結果、タクシス家に支払われる年間報酬は削減することとなる。それまでは、帝国郵便とは言いつつも民間の郵便物も代償を払うことにより配達していたが、ハプスブルク家の郵便物以外は郵便ルートの使用をしないことを改めて強調されるようになり、一家にとっては難しい状況となった。

タクシス家はそれにも負けず事業を拡大することを試み、ついに1530年民間の郵便物の取扱いを許可され、新しいルートを開拓、そしてついに1545年から独占事業となった。

郵便配達人が被っていた帽子。

ドイツの帝国郵便は、現在世界で使われる郵便制度の元にあたる。そして、この事業で富を蓄えたタクシス家、または、トゥルン・ウント・タクシス家は、18世紀半ば以降わが町レーゲンスブルクに拠点を構え、今でもそのお城が現役の居城として残っている。

トゥルン・ウント・タクシス家と神聖ローマ帝国

それでは一体、この城主トゥルン・ウント・タクシス家とは、どんな一家なのか?

トゥルン・ウント・タクシス家は、イタリアのトゥルン家とタクシス家という2つの家系が、1650年に1つとなったものである。

一家は元々身分が高かったわけではない。1608年に初めて貴族として認められ、1624年に帝国諸侯、1695年に侯爵に昇格した。民間へと郵便が拡大するとともに、その独占事業を通じ、富を蓄えていったのである。

トゥルン・ウント・タクシス家は北イタリアのロンバルディーに起源があるが、便宜上、皇帝の住むブリュッセルに引越し、その後18世紀前半にフランクフルトに宮殿を築いた。

当時は神聖ローマ帝国の時代。帝国議会は会場を転々としながら不定期に開催されていた。会議は長期間にわたることが多かったので、皇帝に代わり富豪が代理を務めたのだが、それには多くの経済的負担が発生した。

帝国議会が開かれている間は、他の経済活動が行えないだけでなく、参加者のためにコンサートや演劇などの娯楽を提供するなど、経済的な負担が大きかった。通常だと、帝国議会の皇帝代理を一度務めたら財力が尽きるものだが、1748年には皇帝の代理として神聖ローマ帝国の議会を仕切る立場まで職位を上げたトゥルン・ウント・タクシス家は、3代にわたって皇帝代理を務め上げた。この一家の経済力がいかに大きかったかは、容易に想像できるだろう。

とりわけ、1663年にレーゲンスブルクで開かれた帝国会議は特別だった。150年ほど続いたため永続的帝国議会とも呼ばれた。150年ほど続いたなか、後半皇帝代理を務めたのが、このトゥルン・ウント・タクシス家なのである。

レーゲンスブルクの旧市庁舎の一部。1340年に建築された当時にダンスホールとして建てられた部分は、改築されて帝国議会の会場となり、たびたび利用された。
選帝侯(7〜10名)は議会の前に打合せ。旧市庁舎の一部(1240年建設)、塔のすぐ左2階。

1866年プロイセンがオーストリアとの戦いに勝利し、郵便を国有化することになったのだが、それまでの約320年間華やいだトゥルン・ウント・タクシス郵便の独占事業は完全に幕を閉じることとなったのだ。

トゥルン・ウント・タクシスのお城

中庭より、豪華な部屋がたくさんある東館。
トゥルン・ウント・タクシスの塔は、日本の某漫画に登場。ファンの間では聖地となっている。

お城の中でも最も古い部分は北翼。12世紀にまで遡る。ベネディクト会の修道院の回廊などがそのまま残っている。ここは聖エメラム教会が世俗化した1812年以降にトゥルン・ウント・タクシスの所有となる。

お城は改築、増築を繰り返し、現在の姿になった。イギリスのバッキンガム宮殿よりも大きなお城である。

実はフランクフルトに立派な宮殿を完成させた10年ほど後に、一家はレーゲンスブルクに引っ越すこととなった。フランクフルトに建てた宮殿から一部鏡や家具なども移動させたおかげで、その後フランクフルトの宮殿が火災に見舞われた際、焼失せずにレーゲンスブルクで保管されていたのは幸いだった。一方、古い建物を改築したため、天井が低く、それに伴う苦労や工夫もあちこちに見られる。

お城(南翼)の内部。(C)Fürst Thurn und Taxis

いずれにせよ、ヨーロッパ中に権力を持つ貴族がレーゲンスブルクに引っ越してきたことは、町の発展にとっても大きな意義がある。ウィーン風の社交性、2330冊もの個人所有の書物(1786年以降一般にも公開されている)、劇場、旧市街南部に広がる緑地帯など、他にもまだまだ挙がるだろう。

このお城には、今でも11代目の侯爵夫人であるグローリア氏(12代侯爵の母)がお住まいだ。現役の住居であるお城にも関わらず、1日に何度か開催されるガイド付きツアーに参加することにより見学できるという、非常に貴重なお城なのである。

先日私が訪れた時も、会食準備中の部屋は、机に白いテーブルクロスがかけられ、いつもの場内見学コースから外されていた。また城の一部の部屋は結婚式や式典などのために貸し出される他、お城の中庭では毎年7月に複数のコンサートが、11月末(2024年は11月22日より)には敷地を開放してクリスマスマーケットが開かれる。慈善活動としては、一部の図書の閲覧を一般人向けに可能にしたり、1日最大で300人分の食事を無料で提供したりしている、という非常に開かれたお城なのだ。

レーゲンスブルクにあるトゥルン・ウント・タクシス城は、過去の栄光を感じつつも現在も「生きて」いる。歴史的背景を知った上で、是非訪れていただきたいお城である。現在ドイツ語、英語のみのガイド付きツアーがあるが、いずれ要望が高まれば、日本語のツアーも開催される日が来るかもしれない。

トゥルン・ウント・タクシス 公式サイト: https://www.thurnundtaxis.com/

文・写真/吉村美佳(ドイツ在住ライター)
東京時代にバックパッカーとして25カ国を訪問した後、2002年末に渡独。レーゲンスブルク観光局公認日本語ガイドである傍ら、大好きな町レーゲンスブルクから情報を積極的に発信している。世界100ヵ国以上の現地在住日本人ライターの組織「海外書き人クラブ」(http://www.kakigaikakibito.com/)会員。

 

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