文・写真/吉村美佳(海外書き人クラブ/ドイツ在住ライター)

舞台はドイツ・バイエルン州にあるレーゲンスブルク。2000年の歴史を持つ中世の町並みが残るこの町は、かつてはドナウの水運を利用し遠隔貿易で栄えた。1806年までバイエルンから独立した自由都市であり、神聖ローマ帝国の中心地でもあった。

レーゲンスブルクとドナウ川(北東から撮影)。

旧市街内には今でも960もの重要文化財があり、その周辺を含めると1000を超すとも言われる。掘り起こせば考古学者が喜ぶほど、あちらこちらの地下には貴重な遺跡が今も残っている。そんな歴史ある町を大きく様変わりさせた戦争が、ここに紹介する1809年4月19日から23日まで、レーゲンスブルクとその周辺で繰り広げられた「レーゲンスブルクの戦い」であった。これは第五次オーストリア戦役(第五次対仏戦争)の一部で、レーゲンスブルク側に立つのはフランス、バイエルンとライン同盟、そして敵はオーストリアである。

ナポレオンは、スペイン独立戦争での失敗から地元パリに戻って次の戦略を練っていた。オーストリア軍は4月10日、バイエルンでの攻撃を開始した。それを知ったナポレオンもすぐに軍を整えバイエルンに向けて出発。

オーストリア軍は19日午後にレーゲンスブルクへ到着した。北のシュタットアムホーフに陣取りつつも、それを敵に悟られないように南にも軍を配備した。クレナウ軍将率いる部隊はシュタットアムホーフを見下ろす丘にある三位一体教会付近に待機した。

丘の上に立つ三位一体教会。

一方ナポレオンの率いるフランスの軍隊は南部を中心に戦闘を整え、オーストリア軍を南に誘き寄せ、近郊の町でいくつもの戦いが行なわれた。

4月23日日曜日の朝、フランス軍がレーゲンスブルクを南部から攻撃し始めた。

少し東側では、ナポレオンとランヌ元帥が、勝利を目前に冗談を言い合いながら朝食をとっていた(別の書によると、ランヌ元帥がナポレオンからの最終指示を受けていた)が、オーストリア兵がライフルでナポレオンの右足を撃ち命中。これがナポレオンの一生涯の中で4回負傷したうちの一つ、かつ皇帝となって初めての負傷である。

ナポレオンが右足を負傷したとされる場所は、当時の名残はない。
ナポレオンが1809年4月23日にここで負傷した、と刻まれた石板。

外科医のアレクサンダー・イヴァンがすぐに駆けつけ、ナポレオンの乗馬靴を切り裂き手当てをした。傷は深くないがつま先が黒く腫れ上がり、激しい痛みで直立できないため、ナポレオンはランヌ元帥に寄りかかった。人々は休息を取るよう助言したが、何が起こったかを我が目で見たいと、靴紐を結び上げて簡易的に乗馬靴を履き直した。または、皇帝の負傷を耳にした数千人という兵士が不用意に集まってくるため敵の恰好の餌食になるからと、人々を散在させるために移動したとも言われる。

南の丘の上には、ナポレオンが怪我の手当てを受けるときに座ったとされる石が、今も存在する。

ナポレオンが座ったとされる石。
石の後ろ側には、ここでナポレオンが手当てを受けたと書かれている。

ところが、残念ながらこの石はケガの手当てとは関係なく、1855年に運び込まれたものである。正しくは、23日の昼間に、ナポレオンがレーゲンスブルクでの戦いを指揮していた場所なのだ。

19世紀前半まで、レーゲンスブルクには中世の城壁やその門が残っていたが、一部はこのときの激しい砲弾で瓦礫の山となった。その瓦礫を踏み台にフランス軍は旧市街内に入り、ペーター門を内側からこじ開け、大勢の軍隊が中に押し入ることができた(結果的にこの門はフランス軍に崩壊され、その後1875年には完全に取り除かれた)。

18時、レーゲンスブルク南東部は炎に包まれていた。大勢のオーストリア兵とフランス兵が、戦いながら北にある石橋を目指した。フランスのランヌ元帥は、石橋の最も北にある塔を崩壊し、シュタットアムホーフへ入ることに成功(通称「黒い塔」と呼ばれるこの塔は、普段はレーゲンスブルクに来る際に入国税を払うための関所である)。

 12世紀に造られたドナウにかかる石橋。写真の奥が北のシュタットアムホーフ、手前が南のレーゲンスブルクの旧市街。

北部の丘で待ち構えていたオーストリアのクレナウ軍将たちの砲弾が、敵も味方関係なくシュタットアムホーフを目掛けて放たれた。北東からの激しい風が吹き荒れていたため炎は広がり、その凄まじさから消火活動を考えるようなレベルではなかった。

オーストリア軍がここから砲弾を発射したという記念碑が丘の上にある。
オーストリア軍が眺めていた風景(2024年撮影)。

オーストリア軍がいた場所からレーゲンスブルクはすっきり見渡せる。この日は深い霧が覆っていたが、午後は霧も晴れて、しかも日の入りまでまだ時間もあったはず。

その日の夜、屍をまたぎながらシュタットアムホーフの住民は石橋を越え、南のレーゲンスブルクへと逃げていった。深夜の時点では70軒もの家が燃えたと言われる。

その後も数時間から数日燃え続け、最終的には95軒の家が炎に崩れ、三千人以上の住民が屋根を失うことになる。

翌24日、ナポレオンは午後になってシュタットアムホーフを訪れた。庶民の代表が通訳を介してナポレオンに謁見し、無実な市民の悲惨な状況を説明すると、賠償するから心配はいらないと答えたと言う。その夜、ナポレオンはカール・テオドール・フォン・ダールベルク宰相の宮殿に宿泊した。

ダールベルクの宮殿(北西)。

ダールベルクは1803年以降レーゲンスブルクに住んでいたが、元々はマインツ大司教選帝侯であった。戦争により土地を失ったためにナポレオンが便宜を図り、レーゲンスブルクに赴任させたのだ。その後は神聖ローマ帝国の宰相を務めていた(ナポレオンがここに滞在した1809年4月末は、ダールベルクは不在であった)。

ダールベルクの宮殿(北)。

翌25日の夕方は、フランス軍の勝利を祝うレセプションがここ宮殿で開催された。バイエルンの町レーゲンスブルクはフランスの勝利を喜び、「我が守護神、皇帝万歳!」と人々が叫ぶ。ナポレオンはシャンデリアの下に腕組みをして、一部切断された乗馬靴を履き、立ったままそれを聞いていたという。

この総裁のための宮殿にナポレオンが1809年4月24、25日本部を置いた、と刻まれた石版。

このレーゲンスブルクの戦いは、2000年の歴史の中で町の景観を最も様変わりさせたが、実はそれ以前にも、ナポレオンは間接的にレーゲンスブルクの人々の生活を大きく変えていた。

ナポレオンがヨーロッパで猛威を振るっていたために発足したのが対仏同盟であるが、ナポレオンはドイツ諸侯を神聖ローマ帝国から離脱させてフランスの同盟国につけた(ライン同盟の発足)。そのため、結果的には神聖ローマ帝国の滅亡を招いた。帝国の中心都市であったレーゲンスブルクは、バイエルンの支配下に入り、単なる地方都市となっていたのである。

レーゲンスブルクの戦いの後も対仏同盟は続いたが、この戦いを含む第五次対仏大同盟こそが、ナポレオンが輝いていた時代の最後の戦争であった。

続く第六次対仏大同盟との戦いではロシア遠征に失敗、ナポレオンは退位を余儀なくされ、1814年エルバ島へ追放されることとなる。

文・写真/吉村美佳(ドイツ在住ライター)
東京時代にバックパッカーとして25カ国を訪問した後、2002年末に渡独。レーゲンスブルク観光局公認日本語ガイドである傍ら、大好きな町レーゲンスブルクから情報を積極的に発信している。世界100ヵ国以上の現地在住日本人ライターの組織「海外書き人クラブ」(http://www.kakigaikakibito.com/)会員。

 

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