文・写真/御影実(オーストリア在住ライター/海外書き人クラブ)

スキー大国として知られるオーストリア。19世紀後半にノルウェーから伝えられたスキー文化は瞬く間に国民の間に広がり、50年後には世界初の屋内スキー施設が首都ウィーンに作られていた。その舞台となったのは、空っぽの巨大な駅舎だ。駅がスキー場として再利用されたのはなぜだったのか? そして、屋内スキー場は、人々に受け入れられたのか?

壮麗な廃駅の中に作られた「雪の宮殿」と、その一生に迫る。

「ウィーン北西駅」跡地

ハプスブルク帝国の鉄道駅

現在は中央駅、北駅などいくつかの主要駅があるウィーンだが、かつて「北西駅」があったことを知る人は少ない。

ウィーン北西駅は、ハプスブルク帝国全盛期の1873年に建造された美しい駅だ。当時の帝国領モラヴィア地方(現在チェコの一部)とウィーンをつなぐ路線のための駅で、人の輸送の他、魚や石炭、木材や牛乳などの貨物輸送にも活躍した。

ウィーン北西駅の模型
壮麗な駅構内のスケッチ

しかし、第一次世界大戦とハプスブルク帝国の崩壊と共に、チェコとオーストリアは別の国となり、人の行き来が激減する。1924年にはこの駅は、貨物輸送のみに役割を移し、空になった壮麗な駅舎は以後、政治演説や臨時展、映画のロケ地として使用されるようになった。

世界初の屋内スキー場「雪の宮殿」の誕生

そんな中、ウィーン北西駅の駅舎を再利用し、屋内スキー場を作る奇想天外な提案をしたのが、ノルウェー人のカールセンだ。

ノルウェーに起源をもつスキーは、1873年のウィーン万博でオーストリアに到達し、人気を博す。第一次世界大戦後の1920年代には、スキー競技やスキースクールも発達し、庶民の手にも届く国民的スポーツとなっていた。

すでに前年にロンドンとベルリンで仮設屋内スキー場が作られていたこともあり、ウィーンに世界初の恒久的な施設を作ることは、画期的ではありながら、不可能なことではなかった。

人工スキーゲレンデの模型

広大な駅舎の中には、高さ16メートル、長さ64メートル、幅28メートルの巨大な木造の枠組みが組まれ、4000平方メートルのゲレンデが作られた。300人が滑ることのできる巨大なゲレンデには、本物のトウヒの木が植えられ、高さ20メートルのジャンプ台やそり専用コース、電気モーターを使った簡易リフトも設置された。建物内にはレンタルやスキースクールだけでなく、観客席やレストランなども用意された。

駅舎の中に作られたスキーゲレンデ。左にジャンプ台もある

最大の争点となったのは、人工雪問題だった。イギリス人のエイスコーが発明した当時の人工雪は、化学物質にソーダ(重曹水)を振りかけて作られたものだ。ゲレンデには、20メートルの厚さにヤシ殻が敷き詰められ、その上に15センチほどの厚さに人工雪が敷かれた。

こうして1927年11月に大々的にオープンしたのが、屋内スキー場「雪の宮殿」だ。

「大きな自然への小さな玄関」というキャッチコピーも作られ、大都市の中で気軽にウィンタースポーツを楽しめる施設として話題をさらった。スキーコースや子供のスポーツ大会も開かれた。

「雪の宮殿」の凋落

「雪の宮殿」は、本来恒久的な施設として建造されたが、その終わりは意外に早く訪れた。

まず、最大の競合相手は本物のスキー場だった。ウィーン近郊に電車で日帰りできるスキー場が複数作られ、ウィーンから数時間かけてアルプスに行くことができなかった庶民にも、自然の中でスキーを楽しむ場が増えた。屋内の人工スキー場か、近場の本物のスキー場かの二択は、後者の勝利となった。

また、人工雪は利用者の間で物議をかもした。本物の雪よりツルツルしていて、肌のかゆみや呼吸困難、服の汚れを訴える利用者もいた。この人工雪に対する否定的評価が決定打となり、翌年3月、オープンからたった103日後に、「雪の宮殿」は閉鎖となる。

こうして短命に終わったウィーンでの屋内スキー施設だが、屋内スキー場ブームの火付け役となり、1930年代には、パリ、ロンドン、ボストン、ニューヨークにも同様の施設が作られた。建設費や管理費が膨大になることから、仮設施設として作られることが多かったのは、ウィーンの教訓を生かしたのだろう。

廃駅のその後

再び空になったウィーン北西駅は、オーストリアのドイツ併合という時代の流れに巻き込まれていく。1938年以降、ナチスの高官たちがこの広い廃駅を会場としてプロパガンダの演説を行い、反ユダヤ人の臨時展を開催した後、1942年からこの建物は強制労働者施設となった。

強制労働者施設を示す杭が、博物館の一部として屋外展示されている

第二次世界大戦の終わりには、ソヴィエト軍の砲撃により駅舎は大きな損傷を受けたが、戦禍で麻痺した鉄道網を補うため、1945年からこの駅は再び人の輸送にも利用された。駅舎は1952年に撤去され、戦後の復興によりインフラが再興した1959年、この駅は人の輸送の役割を終える。

その後も貨物輸送は行われ、倉庫も利用されていたが、2021年を最後に列車の運行全てが廃止され、北西駅は駅としての機能を完全に停止した。現在は資料館(https://tracingspaces.net/museum/)が建てられ、10年後には再開発が完了する予定だ。

打ち捨てられた貨物輸送のプラットフォームと倉庫群

廃駅跡地を歩く

現在この地を訪れると、あの美しい北西駅の駅舎は跡形もなく、広大な土地には、打ち捨てられた倉庫や、雑草の生えた廃線が目に入る。一部は駐車場となっているが、よく見ると地面に白線が引いてある。これが、取り壊された北西駅駅舎の平面図だ。

地面に引かれた白線は、ここが駅であったことを示す最後の名残だ

白線を辿って歩くと、その特徴的な建物の形や、駅舎の大きさが脳内で構築されていく。ガラス張りのファサード、プラットフォームを行きかうハプスブルク時代の旅行者、チェコに向かって伸びる線路、入構する蒸気機関車。

途切れた廃線とプラットフォームが歴史を物語る

そして、この廃駅が屋内スキー場になったとき、どれほどの大きさのゲレンデが作られ、戦間期の市民を楽しませたのか。現在は吹きさらしの廃倉庫と駐車場だが、確かに100年前にこの場所で、スキー客たちが歓声を上げてウィンタースポーツを楽しんでいたのだ。

今後再開発で、これらの倉庫や廃線は撤去され、この地には住宅や公園ができる予定だ。失われた路線、失われた駅舎、失われたスキー場。ウィーンの片隅を歩くとき、そこにはたった百年前の忘れ去られてしまった歴史がある。

文・写真/御影実
オーストリア・ウィーン在住フォトライター。世界45カ国を旅し、『るるぶ』『ララチッタ』(JTB出版社)、阪急交通社など、数々の旅行メディアにオーストリアの情報を提供、寄稿。監修やラジオ出演も。世界100ヵ国以上の現地在住日本人ライターの組織「海外書き人クラブ」会員(https://www.kaigaikakibito.com/)。

 

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