文・写真/角谷剛(米国在住ライター / 海外書き人クラブ )
1860年に江戸幕府が米国に派遣した万延元年遣米使節はサンフランシスコ到着後、海路でパナマへ向かい、大西洋側で別の船に乗り換えて首都ワシントンへ向かった。当時はパナマ運河が完成していなかったため、汽車でパナマを横断している。
それから明治維新を経て11年後の1871年(明治4年)、新政府が派遣した岩倉使節団の入港地もサンフランシスコではあったが、ワシントンへの道のりは陸路をとった。岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文らを含む使節団は、僅か2年半前に開通したばかりの北米大陸横断鉄道で東海岸へ向かったのである。日本初の鉄道である新橋―横浜間が開通する1年前のことだ。
広大な北米大陸を陸路で横断することは現在でも容易ではない。遠い島国からやって来た一行の目に大陸の雄大な景色はどう映っただろうか。
最初の北米大陸横断鉄道
北米大陸を横断する初の鉄道路線は南北戦争のさなかに建設が始められ、1869年5月10日に完成したとされている。日本では明治天皇が遷都のために東京に到着した翌日にあたる。
それまで東海岸からはネブラスカ州オマハまでは鉄道が到達していた。そのオマハから西向きへユニオン・パシフィック鉄道が、カリフォルニア州サクラメントから東向きへセントラル・パシフィック鉄道が、それぞれ鉄道建設を進めていった。そして両者は中間地点のユタ州プロモントリー・サミットで接続した。
開通した大陸横断鉄道は北米大陸に広く分布していた野生バッファローをほぼ全滅に追い込んだ。その一方で、南北戦争で分断の危機にあったアメリカ合衆国をまとめる大きな役目も担った。それ以前、東海岸と西海岸の間を移動するには、万延元年遣米使節のように海路でパナマを経由して大陸を迂回するか、あるいは馬車で冒険のような長旅を覚悟しなくてはならなかった。鉄道開通によって大陸横断の旅程は約1週間と飛躍的に短縮された。もっとも前述した岩倉使節団は途中で何回も大雪などの理由で足止めされ、サンフランシスコを出発してからワシントンに到着するまでに約1か月もかかっているのだが。
忘れられていた歴史の再評価
シエラネバダ山脈越えのある東向きの建設工事は特に困難を極めた。そこには約2万人と言われる中国人出稼ぎ労働者が従事していた。自由州であるカリフォルニアは奴隷労働に頼ることはできず、その代わりとなる廉価な労働力として中国から多くの移民を受け入れたのである。
それでも当時の米国内での人種差別は激しかった。中国人たちは白人より劣悪な待遇で、しかも過酷で危険な労働が強いられていたと言われている。それにもかかわらず、中国人労働者たちは報われることが少なく、その存在はほぼ無視されてきた。東西からの鉄道建設が最後に接続したユタ州プロモントリー・サミットで撮影された有名な記念写真(下)には1人の中国人らしき姿を見ることが出来ない。
だが、近年では中国人移民が米国の歴史に大きな貢献を果たしたことを認める声が次第に大きくなってきている。
大陸横断鉄道開通150周年にあたる2019年には全米の博物館などで様々な記念式典や特別展示が行われたが、その際には中国人労働者たちの歴史的な功績を見直す機運が再び高まった。中でも国立アメリカ歴史博物館は2019年55月10日から翌2020年3月13日までの約10か月間にも渡って、本館1階で「Forgotten Workers(忘れ去られた労働者たち)」と題して、大陸横断鉄道建設に従事した中国人労働者たちの写真や当時の建設道具や生活用品などを多数展示した。その様子は現在同博物館ウェブサイト上の特設ページ(https://www.si.edu/exhibitions/forgotten-workers-chinese-migrants-and-building-transcontinental-railroad-event-exhib-6332 )で見ることができる。
「国立アメリカ歴史博物館」(National Museum of American History)
住所:1300 Constitution Ave., NW Washington, DC
電話:(202) 633-1000
公式ホームページ: https://americanhistory.si.edu/
文・写真/角谷剛
日本生まれ米国在住ライター。米国で高校、日本で大学を卒業し、日米両国でIT系会社員生活を25年過ごしたのちに、趣味のスポーツがこうじてコーチ業に転身。日本のメディア多数で執筆。海外書き人クラブ会員(https://www.kaigaikakibito.com/)。