文・写真/角谷剛(米国在住ライター / 海外書き人クラブ )

1848年、ラナルド・マクドナルドという24歳の青年が、アメリカの捕鯨船から漂流者を装って北海道利尻島に上陸した。ペリー来航(1853年)より5年前のことである。元号が弘化から嘉永に改められたばかりで、江戸幕府の将軍は第12代家慶だった。

当時の日本は鎖国時代であり、外国人が自由に入国することはもちろんできなかった。マクドナルドはその場で捕らえられ、後に長崎へ送られることになる。長崎では森山多吉郎ら通詞たちに英語を教えた。日本最初のネイティブ英語教師とも呼ばれている。

白人と北米先住民のハーフが探し求めたルーツ

マクドナルドは英領時代のオレゴン・カントリー(現在の米国オレゴン州)で1824年にスコットランド人の父と、北米先住民チヌーク族の母との間に生まれた。今で言う「ハーフ」である。

身長約173センチで髪も瞳も黒いマクドナルドの容貌は、後に出会ったアイヌ人や日本人たちの警戒心を弱めることに役立った。だが、白人中心であった北米社会では差別の対象となるものであり、マクドナルドは疎外感を感じながら成長した。

当時この地域を支配していたハドソン湾会社の地図(1791年)
“An Accurate Map of the Territories of the Hudson’s Bay Company in North America (John Hodgson 1791)” by Manitoba Historical Maps is licensed with CC BY 2.0.

マクドナルドは、自分のルーツである北米先住民の先祖が、アジアから陸続きだったアラスカを通って北米大陸へやってきたという説を信じていた。11、12歳の頃には、日本人漂流者3名がオレゴン・カントリーに送られてくるという出来事があり、それからは日本という島国を強く意識するようになった。

 自ら志願して日本へ密入国

マクドナルドは、日本に行くための方法として捕鯨船の船員になった。英米の捕鯨船団は大西洋で乱獲し過ぎたため、新たな漁場を探していたが、日本近海に鯨がおびただしく群棲していることに目をつけた。そのため多くの英米捕鯨船が日本近海へ向かっていたのである。ペリーが黒船を引き連れて江戸幕府に開国を迫ったのも、第一の目的は捕鯨のための寄港地を得るためであった。

マクドナルドが乗り込んだ捕鯨船プリマス号がニューヨークを出港し、ハワイ諸島を経て、日本海にやってくるまでには約3年の月日が経っていた。北海道西岸で漁を終えたプリマス号から、マクドナルドは周囲の制止を振り切って、単身で小舟に乗り移り、日本へ向かった。

最初に上陸した焼尻島を、マクドナルドは無人島と思い込んだ(事実ではない)。漂着した海岸付近で1人の人間にも会わず、人家も見つけることができなかったからだ。マクドナルドの手記によれば、その島で「ロビンソン・クルーソー」のような4日間を過ごし、海の向こうに頂上に雪を頂いた山を見つけた。それが利尻島である。

マクドナルドが目指した利尻富士

利尻島南東部から眺めた利尻岳1

利尻島は周囲約60キロの火山島である。中央に標高1,721mの利尻岳がそびえ、山裾が海岸線まで続いている。山そのものが島と言ってよい。富士山によく似た山容の独立峰で、天気が良い日は北海道本島や遠くの海からもよく見える。

焼尻島を離れ、新たな上陸地を探したマクドナルドはこの利尻岳を目指して小舟を漕いだ。焼尻島から利尻島までは直線距離でも約100キロ離れており、小舟で行きつくのは簡単なことではなかったはずだ。この辺り、小説ならば詳細な描写が必要になるだろうが、マクドナルド自身の手記でもこのときの状況をさほど詳しくは語っていない。

陸地が近づくと、マクドナルドはわざと小舟を転覆させた。自分の意志で上陸するよりも遭難者を装った方が入国しやすいと考えたからだ。その試みは成功し、海岸近くを小舟で漂流する異国人を発見したアイヌ人に助けだされた。マクドナルドの船が引き上げられた野塚の海岸に、現在は記念碑が建てられている。険しい岩場の磯である。

野塚近くの海岸

囚われの身ながらも、日本初のネイティブ英語教師に

 念願の日本上陸を果たしたマクドナルドだが、その土地を自由に歩き回ることは1度もできなかった。利尻島で30日間ほど拘留されたのち、宗谷、松前と身を移され、数か月後には長崎へ送られた。漂着者として生命の保護はされていたが、ずっと囚われの身だった。

それでもマクドナルドは番人などに声をかけ、懸命に日本語を覚えようとした。耳を”memee”、口を”quich”、のように聞き覚えた単語を紙に記し続け、最終的にその数は500語以上にも及んだ。

利尻島南東部から眺めた利尻岳2

そして長崎では、森山多吉郎らオランダ語通詞たちに乞われて英語を教えた。森山はそれ以前にも英語を学んでいたが、その教師は英語を話すことができると自称したオランダ人だった。そのため、”name” を「ナーメ」、“learn”を「レルン」などと発音しており、ほとんど英米人には通じない英語だった。マクドナルドが日本最初の「ネイティブ」英語教師とも呼ばれている所以である。

マクドナルドが長崎に滞在したのは7か月ほどでしかない。1849年4月には他の漂流者とともに米国軍艦に引き渡され、長崎を離れている。

しかし、マクドナルドが英語教師として日本の歴史に果たした役割は大きかった。森山は5年後のペリー来航の際には日本側の主席通訳を務め、江戸で英語塾を開いた。門下生は津田仙、福地源一郎、福澤諭吉など多士済々で、幕末と明治時代を代表するジャーナリスト、啓蒙者、教育者などを数多く輩出している。彼らはマクドナルドの孫弟子たちと呼べなくもない。

70年の人生を凝縮した日本での10か月

出版されたラナルド・マクドナルドの手記(英語版)
“Ranald MacDonald, visitor to Japan” by born1945 is licensed with CC BY 2.0.

米国に送還されたマクドナルドは、その後も船員として生きた。世界各地へ航海し、晩年はワシントン州フェリー郡の先住民居留地で暮らした。日本を離れてから45年を過ぎていたが、自分の人生でもっとも輝かしいハイライトは日本での10か月間だと考えていたらしい。70歳で死に際した最後の言葉は”sayonara my dear, sayonara”であったと伝えられ、マクドナルドの墓標に刻まれている。

ラナルド・マクドナルドと森山多吉郎の生涯は、吉村昭著『海の祭礼』に詳しい。マクドナルドの手記もウィリアム・ルイス と村上直次郎による注釈と編集により『日本回想記』(日本語版)というタイトルで出版されている。

ラナルド・マクドナルド上陸記念碑
住所:〒097-0101 北海道利尻郡利尻富士町鴛泊字野塚
利尻富士町観光協会ホームページ:https://rishirifuji.jp/ 

文・写真/角谷剛
日本生まれ米国在住ライター。米国で高校、日本で大学を卒業し、日米両国でIT系会社員生活を25年過ごしたのちに、趣味のスポーツがこうじてコーチ業に転身。日本のメディア多数で執筆。海外書き人クラブ会員(https://www.kaigaikakibito.com/)。

 

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