文・写真/角谷剛(米国在住ライター / 海外書き人クラブ )

高知県足摺岬の近くに立つジョン万次郎の銅像

アメリカン・フットボールというスポーツに関心がない人でも、「サンフランシスコ・49ers」というチームはどこかで見聞きしたことがあるのではないだろうか。サライ世代なら、1980年代に活躍した名クォーターバック、ジョー・モンタナの名前も時代を象徴するアイコンとして記憶にとどめているかもしれない。

49ersのチーム名はカリフォルニア・ゴールドラッシュに由来する。1848年に始まり、1852年くらいまで続いたといわれているゴールドラッシュは1849年にそのピークを迎えた。この期間に北米大陸のみならず、南米、ヨーロッパ、オーストラリア、中国など、世界中から一攫千金を夢見てサンフランシスコに殺到した人々の数は約30万人といわれ、彼らのことを49ersと呼ぶ。その49ersの中に日本人も含まれていることはあまり知られていない。

時代の波に翻弄された漂流民たち

当時の和船は帆が1本だけで甲板もなかった”浦嶋神社の北前船模型”
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その頃の日本は江戸幕府による鎖国時代の最後期にあたる(ペリー来航は1853年)。日本国内に外国人が入国することはできず、日本人が海外へ渡航することもできなかった。わずかに長崎の出島で清国とオランダを相手に通商が行われていたに過ぎない。

鎖国体制において国内海運業は独自の発展を遂げたが、江戸幕府が大船の建設を禁じたため、北前船と呼ばれた廻船や漁船は遠洋航海の技術を持たなかった。沿岸の地形を見ながら位置を確認する沿岸航法である。そのため、嵐などで外洋に流されるとなすすべもなく、遭難する船が後を絶たなかった。

遭難した多くの船員は命を落としたが、少数ながらも外国に漂着するか、あるいは外国船に救助され、思いもかけずに外国の地に足跡を残した日本人がいる。井上靖著『おろしや国酔夢譚』で有名な大黒屋光太夫はアムチトカ島に漂着し、10年近くロシアを転々とした後に、ついには帝都ペテルブルクで女帝エカチェリーナ2世に謁見した後に帰国した。そして井伏鱒二著『ジョン萬次郎漂流記』で描かれた中浜万次郎は14歳の時に乗っていた漁船が遭難し、アメリカの漁船に救出された。万次郎はアメリカ本土で初等教育を受け、捕鯨船の船員となった。世界中を航海した後、やはり約10年後に帰国している。

サンフランシスコで交錯した日本人漂流者たち

1910年のサンフランシスコを描いた絵葉書
“postcard-san-francisco-1910” by ashley.rebeccah316 is marked with CC PDM 1.0

万次郎は1849年にサンフランシスコへ上陸し、金鉱で働いた49ersの1人である。金鉱採掘で得た資金を元手にして、ハワイ、上海を経由して、日本へ帰国した。帰国後は故郷土佐藩の士分に取り立てられ、さらに幕臣となり、1860年には有名な咸臨丸に乗って、遣米使節団の一員として再びアメリカに渡った。このときの入港地もサンフランシスコである。

万次郎より数年遅れた1852年、紀伊半島沖で遭難した栄力丸の船員17名が、救出された船によってサンフランシスコに連れてこられた。この中には当時14歳で最年少の浜田彦蔵がいた。後にジョセフ・ヒコ (Joseph Heco)の名で有名になるこの人物の生涯はさらに数奇に満ちている。

吉村昭著『アメリカ彦蔵』の著者あとがきには、彦蔵は「3度アメリカの土を踏み、サンフランシスコからニューヨーク、ワシントンにも何度かおもむき、(中略)、ピアース、ブキャナン、リンカーンの3代にわたる大統領に官邸で会い、握手も交わしている」とある。まるでフォレスト・ガンプのような遍歴だが、さらに加えると、彦蔵はキリスト教の洗礼を受け、日本人として初めてアメリカの市民権を取得し、日本に帰国後はアメリカ初代駐日大使タウンゼント・ハリスの通訳を務めた。日本で初めて日本語の新聞、『海外新聞』を刊行したともいわれている。

彦蔵は2度目に訪れたサンフランシスコで他の日本人漂流者とも出会っている。越後国(新潟県)出身の勇之介は乗っていた漁船「八幡丸」が遭難し、唯一の生存者としてアメリカの貨物船に救出され、サンフランシスコに連れてこられた。彦蔵と船員仲間は勇之介の通訳を務めた。

急激に拡大するアメリカ合衆国を目撃した日本人たち

1899年のサンフランシスコ湾地図
“San Francisco, California, 1899, 15-minute topographic map” by U.S. Geological Survey is marked with CC0 1.0

万次郎と彦蔵は2人とも少年の頃に乗っていた漁船が遭難してアメリカの地を踏み、約10年間アメリカに滞在した後に日本へ帰国した。だが、その後は大きく異なった道を歩んだ。幕臣となった万次郎は明治政府にも仕えるが、アメリカ国籍となった彦蔵は外国人として死んだ。

万次郎が遭難した1841年当時のアメリカ合衆国の領土は現在の半分ほどでしかなかった。メキシコ領だったテキサスが併合されたのが1845年、オレゴン・テリトリーと呼ばれていたオレゴン、ワシントン、アイダホなどの各州がイギリスから譲渡されたのが1846年、そしてカリフォルニアなど西部各州がメキシコから譲渡されたのが1848年である。その後、1861-65年の南北戦争を経て、1867年にはロシアからアラスカを購入し、1898年にはハワイを併合して、アメリカ合衆国はほぼ現在の我々が知る形になる。

アメリカ合衆国が急激に拡大するこの時期にあっても、最大の「ハレ」時代を迎えていたのがサンフランシスコである。太平洋の向こう側で200年間以上の平穏な江戸時代が続いていた日本から流れ着いた漂流民たちの目に、そのサンフランシスコはどう映っただろうか。

文・写真/角谷剛
日本生まれ米国在住ライター。米国で高校、日本で大学を卒業し、日米両国でIT系会社員生活を25年過ごしたのちに、趣味のスポーツがこうじてコーチ業に転身。日本のメディア多数で執筆。海外書き人クラブ会員(https://www.kaigaikakibito.com/)。

 

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