文・写真/御影実(オーストリア在住ライター/海外書き人クラブ)
ウィーンを舞台に、破天荒な主人公モーツァルトの姿を、その才能を理解しつつ嫉妬にかられる宮廷楽長サリエリの視点から描いた、ピーター・シェーファー脚本の映画「アマデウス」。この映画の冒頭で、語り手のサリエリが幽閉されていた建物は、ウィーンに実在した欧州初の精神科病棟だ。
ドイツ語でNarrenturm(ナーレントゥルム)と呼ばれるこの塔は、当時の総合病院の一角にあった。Narrとは、中世の宮廷に仕えた「道化」を意味し、そこから精神障害者の口語表現として使用されるようになった。「愚者の塔」と訳される場合もあるが、旧時代的な精神障害の語感を残す「狂人の塔」が最適な和訳となる。また、現代的な「精神障害」の概念が生まれる前のこの時代、「狂気」が治療可能な「病気」であると認識され始めたという事実を強調する場合に限り、本記事では「精神病」の表現を採用している。
欧州初の精神科病棟は、どのような場所だったのか。今回は、当時の最新の哲学を込めた国家レベルの一大プロジェクトと、その時代を先取りした特異性を紹介する。
サリエリの晩年
モーツァルト時代の高齢者は、最終的に脳の神経を犯してしまう病、梅毒にかかる人が多く、精神病院で一生を終える人も多かった。しかしサリエリは、70歳まで健康で、痛風で通常病棟に入院はしたが、映画のように精神を病んで病院に幽閉されていたという記録は残されていない。亡くなったのも、ウィーン旧市街の自宅だ。また、映画の建物の形状は全く異なり、ロケはオーストリアではなく、チェコで行われている。
映画と史実は異なる部分もあるが、まさにモーツァルトがウィーンにいた時代に建設されたこの塔は、当時のウィーン人の間で大きな話題となっていた。
中世からの医療施設
この塔は、現在のウィーン大学キャンパスの一角に現存している。この区画一帯は1994年まで総合病院として使われていたことから、「旧総合病院キャンパス」という呼び名が定着している。現在でもこの一角には、医学部や法医学研究所等、医療系の研究機関が多く、ウィーンの医学の中心地となっている。
この地域には、ウィーンが古代ローマの要塞都市だった3世紀ごろには墓地があり、現在でも当時の火葬墓地が発掘されている。中世には、ペストの隔離施設が作られ、1683年の第二次ウィーン包囲後、傷痍軍人施設や貧困者のため病院などが近隣に整えられた。
1784年にその一角を整備し、大規模の総合病院を作り上げたのが、「啓蒙皇帝」と呼ばれるヨーゼフ二世だ。「女帝」マリア・テレジアの息子であるこの皇帝は、モーツァルトやサリエリが活躍していた頃のウィーンを統治していた。妹のマリー・アントワネットのいるパリを訪れた際、フランスの医療施設に触れ、この総合病院整備の大プロジェクトの柱の一つに、精神病患者専用の病棟建設を掲げたのだ。
精神障害の歴史と啓蒙皇帝の夢
欧州の歴史上、精神障害者は、「手当されるべき病人」としては扱われてこなかった。独房や檻に閉じ込められたり、鎖につながれて見世物にされることも多く、中世後期には悪魔や魔女と関係があるとして、拷問や火刑の対象になったりもした。時代が下っても18世紀までは、「狂人」や「正気を失った人」は、病人ではなく、物乞いや放浪人などと同じ「憐れむべき人」として、家族内や教会関連施設で世話をされることが多かった。
欧州初の精神科病棟建設は、そのような扱いを受けていた人々を、治療可能な「病人」として、人道的に扱うための独自の病棟を作った、画期的なプロジェクトだった。
ヨーゼフ二世自身の肝煎りの建築であったことは、皇帝が私財を投げうったことからも明らかだ。自由と人道を貴ぶ精神の表れだと、皇帝自身が強く意識していたことがうかがえる。
さらに皇帝は、その構造や理念にも大きな影響力を持っていた。この建物は、5階建ての円柱形で、それぞれの階には28の個室があり、管理室を除くと139室ある。円周は、当時の単位で66ヴィーナークラフター(1 Wiener Klafter=約189m)だ。
この数字に込められた謎には、錬金術や数秘術と関連があるとされている。66は、アラブの伝統で「神の数字」を示し、28は「神よ、病人を癒したまえ」という意味があるとされる。また28は月の暦の日数でもあり、当時のヨーロッパで信じられていた、月と精神の関連を反映している。
建物の中央部分には円形の中庭があり、階段室のある細長い建物が真ん中に建っている。その上には、当時8角形のヨーゼフ二世の個室があり、皇帝は週に何度もここを視察に訪れたという。
この建物は、そのずんぐりむっくりした丸い形が、オーストリアの焼き菓子に似ている事から、当時のウィーン人には「皇帝のグーゲルフプフ(クグロフ)」の愛称で呼ばれた。
欧州初の精神科病棟の理想と現実
こうして1784年、ウィーン総合病院の精神科病棟は、精神病の治療のためだけに作られた、欧州最初の施設として開設された。
ヨーゼフ二世が取り入れた病人に対する人道的配慮は、当時の常識を覆すものばかりだった。個室には扉がなく、患者は内部を自由に動き回ることができた。大きめの窓は中庭ではなく明るい建物外部に面し、セントラルヒーティングと下水処理の設備も設置され、患者たちが可能な限り快適に過ごせるよう、様々な最新の工夫が凝らされていた。
一方、稀に治療が行われる場合でも、当時の医学では効果があると信じられていた瀉血(体内にたまった有害物を血液と共に外部に排出させる療法)や、カッピング(吸い玉療法とも呼ばれる、真空状態にした容器を肌に吸い付けさせる療法)が主な治療法だった。
この建物はウィーン最古の避雷針も作られ、現在でもその姿の一部を見ることができる。これは、電気の治癒能力が何らかの治療に使われる予定だったという説もある。
1795年には、患者専用の庭も作られ、さらなる人道的配慮がなされた。庭の周りには壁がめぐらされたが、これは脱走防止というより、物見遊山気分の一般人の視界を遮る為だった。
こうやって、ヨーゼフ二世の理想に基づき、可能な限り人道的に作られた病棟だったが、次第に現実と理想の乖離が見られるようになる。
暖房設備は、温風と共に煙やガスが建物内に充満し、使用が停止された。下水設備は、詰まりや悪臭のため、個室内の容器に変えられた。個室には次第に扉が取り付けられ、窓には格子が設置された。患者は自由を失い、当初使用が控えられていた拘束衣なども使用されるようになった。ヨーゼフ二世の夢は、次第に現実にとってかわられていったのだ。
19世紀前半には、精神病治療の研究が進み、治療可能な患者は別の施設に移され、この塔には、治療できない人のみが集められた。最終的には、全ての患者が別の施設に移り、この建物は1869年で、精神科病棟としての歴史を閉じる。
1920年代には大学病院の従業員の住居や、倉庫兼工房として利用された後、病理解剖学に関連する標本や模型がここに集められ、1974年から病理解剖学博物館として一般に公開されている。2012年からの改修工事が終わった2020年に再オープンし、現在では再び内部と博物館の訪問が可能になっている。
病理解剖学博物館内
現在この塔は、自然史博物館の一部となっていて、150年近くに渡って収集されてきた、貴重な人体の標本が展示されている。1階部分には、ホルマリン漬けの内臓の標本や骨格が解説と共に展示され、医学部の学生の研修等に利用されているが、一般の訪問も可能だ。2階以上の部分はガイドツアーでの参加となるが、さらに貴重な医学的資料が展示されている。
1階の一室には、上記の鍛冶屋の設備が当時のまま保存されている他、ローマ時代の発掘物や、ヨーゼフ二世の理想とした建築の模型や解説の展示室もある。
医学的関心がないと、グロテスクにも見える展示だが、建物の歴史や、当時の「病気」に対する常識の違いを意識して訪れると、歴史と医学の深いつながりを実感できる博物館だ。
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啓蒙皇帝ヨーゼフ二世のこだわりを秘めた、理想の精神科病棟。現実には、その全ての理想が実を結んだわけではなかったが、一方で当時のウィーンは、後の精神医療のパイオニアとも言われる催眠術師メスマー(https://serai.jp/tour/1030586)を生み、19世紀には、精神医学の祖フロイト誕生の地ともなっている。
精神医学は、理想と現実のはざまで失敗や挫折を経つつも、少しずつ医学としての発展を続け、よりよい患者の治療に貢献するべく、進歩を続けている。その大きな第一歩が、この塔だったと言えるだろう。
文・写真/御影実
オーストリア・ウィーン在住フォトライター。世界45カ国を旅し、『るるぶ』『ララチッタ』(JTB出版社)、阪急交通社など、数々の旅行メディアにオーストリアの情報を提供、寄稿。海外書き人クラブ会員(https://www.kaigaikakibito.com/)。