文・写真/御影実(オーストリア在住ライター/海外書き人クラブ)
オーストリアには、その美しさと豪奢さで知られる図書館が数多くある。ウィーンの王宮内にある「プルンクザール」は、ハプスブルク家の権力の象徴として、「世界で最も美しい図書館」と呼ばれている他、多くの修道院が豪華絢爛な独自の図書館を誇っている。今回訪れるのは、その中でも「世界最大の修道院図書館」を擁するアドモントだ。
アルプスの渓谷と森を抜けた、山間のオアシスのような僻地に、なぜこのような白亜の図書館が作られたのか。息をのむほど美しい、その外見の裏に隠された謎を解き明かす。
迫りくるアルプスのオアシス
アドモントへのアクセスは、一筋縄ではいかない。ウィーンから車で南西へ二時間半とは言っても、その道中の半分以上は、湾曲する渓谷の山道だ。東にゲソイゼ自然公園、北にカルクアルペン自然公園という切り立った山と森と渓谷の間に、突如現れるわずかな平地に、アドモントの町はある。
このような僻地に、11世紀になぜ修道院が建設されたのか? 当地を訪れてみて、その答えが見つかった。ここは、周りが山々に囲まれたアルプスのオアシス的平地なだけでなく、アルプスの東西南北をつなぐ交通の要所だ。北から入るエンス川沿いの渓谷の道はドナウ川に通じ、東の渓谷は鉄鉱山を擁するエルツベルクに通じる。また、西の道は塩鉱山の町ハルシュタットを通って大司教座ザルツブルクに向かい、南は中世の要所フリーザッハや司教座グルクからイタリア方面、アドリア海に通じている。現在は辺鄙な田舎だが、千年前は大都会だった。ザルツブルクは司教座として栄えていたが、ウィーンはまだ発展途上の町だった。中世の時代の話だ。
アドモントの歴史は、ヘマ・フォン・グルクという名の一人の女性に遡る。自身も夫も広大な土地を所有する大貴族だったが、夫や子どもに先立たれ、国一番の裕福な未亡人となった。その広大な土地を、徳を積むためにキリスト教会に寄進した。そのうちの一つが、アドモント修道院の始まりだ。
この土地に、ザルツブルク大司教ゲルプホーフが修道院を建設した。修道院とは、現在でいう大学のような存在で、周辺地域の「知の殿堂」でもあった。アドモントではそれから千年に渡り、学校や研究機関、病院や文書館の機能を備え、数々の宝物や芸術作品が収集された。ヘマ・フォン・グルクは、その財産で複数の修道院の創設に寄与したことで列聖され、「聖ヘマ」として州の守護聖人となっている。
創立後も、アドモント修道院は何度も危機に襲われる。農民蜂起や周辺国からの侵攻、トルコ人の侵略、ナポレオン軍との戦争などで、この修道院とその宝物が危機にさらされた。その避難先として作られたのが、北の渓谷にあるガレンシュタイン城だ。この城の規模と堅牢さを目にすると、アドモント修道院の攻防の歴史が手に取るように感じられる。
17世紀になって、アドモント修道院は大規模改修が行われ、バロック様式に改築される。図書館がバロック後期からロココ様式に増築されたのは、1774年から76年のことだ。
白亜の図書館を歩く
それでは、アドモント修道院とその図書館を訪れてみよう。
敷地内は、いくつかの広い中庭に区切られているが、千年の歴史の割に、建物自体はシンプルで近代的だ。それでいて、ふと目に入る紋章や石造りの門に中世の息吹が宿り、この土地の歩んできた歴史の深さをほのかに感じることができる。
修道院図書館に通じる入り口は、奥の中庭だ。ここは図書館だけでなく、自然史博物館や美術館、修道院の歴史の展示などがあり、現在でも「知の殿堂」の機能を担っている。
案内を頼りにたどり着いた図書館の扉は、いたってシンプルで、見逃してしまいそうだ。扉を押して、足を踏み入れると、そのあまりの明るさに、息をのむ。
ウィーンの王宮図書館が、威厳と威圧感を感じさせる黒と金を基調としていたのとは対照的に、この図書館は、白と金色を基調とし、天井画のピンク色がアクセントを添えている。
この図書館は、先述のウィーン王宮図書館を参考にして作られたが、その両極の色の選択には意味がある。天井画を始め、この図書館のコンセプトは「明るく照らす」を意味する「啓蒙」だ。「世界を知識で照らす」というテーマを、実際の光と明るさと、この壁の色が象徴しているのだ。
48枚の窓から入る光と、白と金の壁で明るく照らされたこの図書館には、一度も人工の光源が設置されたことがないという。修道院自体の歴史は中世だが、この図書館が生まれたのは、ヨーロッパで啓蒙思想が主流となった18世紀、啓蒙皇帝ヨーゼフ二世の即位5年前のことだ。
それでは、館内を歩いてみよう。大きく三つの広間に分かれていて、当時の建築には欠かせないだまし絵と天井画が興味深い。80歳でこれを描いたバルトロメオ・アルトモンテは、ザルツブルクのレジデンツやウィーンのベルヴェデーレ宮殿の絵画も手掛けたフレスコ画家だが、アドモントの天井画が最後の作品となった。二度の夏をこの町で過ごし、天井画の制作に明け暮れたとは、そのバイタリティに驚かされる。
他にも、だまし絵に見える床の模様が修道院の紋章のデザインであったり、置かれた彫刻が「最後の審判」の「四終」を象徴していたり、本棚に模した隠し階段があったりと、じっくり見れば見るほど、興味は尽きない。
「世界第八の不思議」にも数えられる、世界最大の修道院付属図書館。建築、フレスコ画、像、書物、印刷物という様々な芸術を一つ所に集めた、知識の貯蔵庫だ。所蔵の書物の中には、8世紀の写本や、16世紀の印刷物など、貴重な書物も含まれている。
アドモント修道院の悲劇
栄華を極めた修道院を、19世紀に悲劇が襲った。1865年の大火で、修道院のほぼすべての建物が焼け落ちたのだ。パイプオルガンも、宝物も、11世紀から残る教会も、全てが灰となったが、唯一図書館だけは火を免れた。
教会の心臓部といえる教会はその後再建され、オーストリア最初のネオゴシック建築となった。
その後1930年代には破産寸前となり、宝物が売りに出されたり、ナチス時代には閉鎖となって、戦後になって修道会が戻ってきたりと、波乱万丈な時代を経たアドモント修道院。現在はベネディクト派修道会を擁し、学校や老人ホームを経営し、今でもこの地域の宗教・文化活動の中心地となっている。
* * *
白亜の図書館として有名なアドモント修道院図書館だが、実際に訪れると、その輝くような白さや美しさもさることながら、その歴史の深さと、その「白さ」の持つ「啓蒙」の意味を実感する。大火を生き延び、現在でも知識と文化芸術で人々を啓蒙するという目的を持ち続けているこの修道院の在り方に、美しさだけではない時代を超えた使命を感じ取った。
文・写真/御影実
オーストリア・ウィーン在住フォトライター。世界45カ国を旅し、『るるぶ』『ララチッタ』(JTB出版社)、阪急交通社など、数々の旅行メディアにオーストリアの情報を提供、寄稿。海外書き人クラブ会員(https://www.kaigaikakibito.com/)。