文・写真/御影実(オーストリア在住ライター/海外書き人クラブ)
英語に「催眠術にかける」「幻惑してうっとりさせる」という意味の、メスメライズ(mesmerise)という単語がある。この言葉は、18世紀末に欧州で人気を博した催眠術の始祖「メスマー博士」を由来としているが、この人物が若かりし日のモーツァルトを支えた重要なパトロンであったことは、あまり知られていない。
その人物は、アントン・フランツ・メスマー(Anton Franz Mesmer)。ウィーンの裕福な開業医だ。ウィーンに演奏旅行に来ていた、十代のモーツァルトの音楽活動を支えた人物だが、その治療法は催眠術や磁気療法など、科学的根拠に乏しく、敵も多かった。
18世紀後半のウィーンは「女帝」マリア・テレジアの治世で、近代化が進められてはいたが、現在ではオカルトともいえるような治療が人気を博し、王侯貴族まで知れ渡っていた時代だ。そんな中、平民の出のメスマーが、なぜウィーンでモーツァルトのパトロンになれたのか。その後詐欺師として追放されても、人気を博した理由は何か?
高名な医者か、詐欺師か。メスマー博士とモーツァルトやマリー・アントワネットとの関係を紐解きつつ、その波乱万丈の人生を辿る。
「動物磁気」とメスマー宮殿
ドイツで森林官の家に生まれたメスマーは、学問の才覚を示し、ウィーン大学でマリア・テレジアの主治医であるゲラルト・ファン・スウィーテンに師事し、医学を修める。研究テーマは、人間の体内には磁気が流れていて、その流れをコントロールすることで病を治すことができるという、「動物磁気」だ。
卒業後開業したメスマーは、この動物磁気を用いた治療で有名になり、10歳年上の裕福な未亡人と結婚する。この妻がウィーンに宮殿、更に郊外には城も持っていたため、メスマーは富と名声の両方を手にし、確固たる地位を築くことに成功する。
この宮殿には、実験室や診療所、巨大な庭園から劇場まであった。音楽愛好者であったメスマーは、ハイドンやグルック、モーツァルトとも親交が深く、宮殿には貴族や音楽関連の患者や友人が多く出入りし、社交の場となっていた。
モーツァルトのパトロン
モーツァルトは、21歳でザルツブルクからウィーンに引っ越してくるまで、三度ウィーンを演奏旅行で訪れている。一度目は、神童と呼ばれた6歳の時。マリア・テレジアのために御前演奏したエピソードは有名だ。二度目は12歳、三度目は16歳の時だが、この両滞在時、モーツァルトはメスマーにとてもお世話になっている。
1768年、12歳のモーツァルトは、メスマーに依頼されて作曲もしている。オペラ「バスティアンとバスティエンヌ」の初演の場所はメスマー宮殿の庭園で、メスマーをモチーフとした人物が登場するという説が有力だ。
更に、1773年16歳のモーツァルトは、ザルツブルクからウィーンを2ヶ月ほど訪れたが、滞在中の1773年8月18日に、メスマー宮殿の庭園での大音楽会で演奏している。また、同年9月22日には、ウィーンから馬車で半日ほどの距離にある、メスマーの居城ロートミューレを訪れている。
父親レオポルトの手紙には、何度もメスマーの名前や、彼を取り巻く音楽家や貴族の名前が登場し、モーツァルト親子がメスマーの手厚い庇護を受け、親交が深かったことを伺わせている。
盲目のピアニストとメスマーの転落
メスマーがモーツァルトのパトロンをしていたころから、メスマーは磁気療法だけでなく、催眠療法やグラス・ハーモニカという特殊な楽器を使用した治療法を確立させていく。グラス・ハーモニカは、ガラスの摩擦と水を利用した楽器で、当時は大変な人気があったが、次第にその美しい音色が「人を死に至らしめる」と噂されるようになり、演奏が禁止された。
メスマーは、催眠治療の終わりによくこの楽器を演奏しただけでなく、盲目の女性作曲家でピアニストの、マリア・テレジア・パラディス(Maria Theresia Paradis)の治療にも、この楽器を利用していた。モーツァルトが曲を捧げたほど深い親交があったこの女性は、3歳で視力を失い、18歳になった1766年からメスマーの治療を10年にわたって受け続けた。一時期視力が回復しかけたが、とある事件が起き、彼女の治療は中断した。その後再び盲目に戻り、欧州ツアーを行うほどの有名ピアニストになっても、目に光が戻ることはなかったのだ。
その治療中に起こった事件というのが、メスマー追放事件だ。「女帝」マリア・テレジア自身が組織した調査委員会が、グラス・ハーモニカを使用した治療が「詐欺」であると決定し、メスマーは1778年にウィーンから永久追放される。
1781年に21歳のモーツァルトがウィーンに引っ越してきた時には、すでにかつてのパトロン、メスマー博士の姿はなかったのだ。
パリでの人気と晩年
パリに活動の拠点を移したメスマーは、ここでもその催眠療法で大人気を博す。ラファイエット将軍などの著名人が教えを請い、ルイ16世やマリー・アントワネットも興味を示したとされる。しかし、1784年にはパリの調査委員会も、メスマーの治療法と効果は無関係であるという調査結果を出した。その後フランス革命が起き、メスマーはフランスでの財産を失い、故国ドイツに身を寄せる。
1793年には、妻の遺産整理のために、永久追放されたウィーンを極秘のうちに訪れるが、密告され、再度永久追放となる。その後スイスやイギリスを経由し、1798年にはナポレオン治世のパリに戻るが、再びここで財産を取り戻し、人生3度目の絶頂期を迎える。
その後のメスマーの人生は、それまでとは打って変わって、静寂に包まれる。スイスやドイツで開業するが、暮らしぶりはつつましく、貧しい病人やお年寄りの治療にも携わったあと、1815年にドイツの小さな町メーレスブルクで、静かに息を引き取った。
モーツァルトのオペラに登場する「磁気治療」
こんな波乱万丈のメスマー博士の人生だが、モーツァルトは、彼の治療法を意外な方法で後世に伝えている。
メスマーが去った後のウィーンで活躍したモーツァルトは、四大オペラに数えられるオペラ「コシ・ファン・トゥッテ」の中で、磁気治療を登場させ、笑いを誘っているのだ。
登場人物の男性二人が女性の気を引くため、偽の毒薬を飲んだところ、藪医者が登場し、磁気療法の真似事で治療を受けるという場面だ。この場面をモーツァルトは、作詞家ダ・ポンテに頼んでわざわざ挿入してもらったばかりか、「セニョール・磁気ドクター」という呼称や、「偉大なメスマーが発見した磁石」と言った表現まで登場する。
モーツァルト自身は、喜劇性のあるオペラにメスマーをモチーフにした磁気治療を取り入れることで、当時フランスで人気だった自らのパトロンを懐かしく思い出しつつ、彼らしい皮肉を盛り込んだのだろう。当時の観客は、すぐにそれとわかり、客席から笑いが起こったはずだ。
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オペラにまで名を残したメスマーだが、彼の磁気やグラス・ハーモニカ、催眠術を使った治療法は、詐欺や迷信だったのだろうか?彼の弟子たちの研究はさらに続き、現在では催眠治療や精神分析学にも通じている。メスマーは、詐欺師扱いされることもあるが、催眠治療や心理療法の先駆者と言われることも多い。
科学と迷信の境目があいまいな時代に、そのカリスマ性と人間的魅力で一世を風靡したメスマー博士。医学か詐欺か、治療かオカルトか、高名な医者か落ちぶれたペテン師か。本人の目にも、真実は見えていなかったのかもしれない。しかし、モーツァルトを庇護し、サポートした、芸術家を見抜く目は正しかったと言えるだろう。
文・写真/御影実
オーストリア・ウィーン在住フォトライター。世界45カ国を旅し、『るるぶ』『ララチッタ』(JTB出版社)、阪急交通社など、数々の旅行メディアにオーストリアの情報を提供、寄稿。海外書き人クラブ会員(https://www.kaigaikakibito.com/)。