「般若心経」の上に紙をのせ、なぞるように写す「お写経」のスタイルは、薬師寺が発祥だ。

誰一人言葉を発しない、静寂な空間。正面中央のご本尊・薬師如来坐像に見守られる中、それぞれの思いを抱きながら、一字一句を墨書していく。〈色即是空 空即是色〉〈羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦〉……仏の教えを説いた126文字の「般若心経」が今、改めて注目されている。

「墨をする瞬間から、お写経に向けて心が整っていきます。わずか小一時間集中することで、一週間の間に心についたほこりがはらえたような気がするのです」

薬師寺東京別院の写経道場に通っているという女性の談だ。

2年以上に及ぶコロナ禍で、生活はもとより、心の在り方ががらりと変わったという人は多いだろう。そんな人々の心のあり様の変化を敏感に感じ取ったのが、薬師寺東京別院の主事・根来穆道(ねごろぼくどう)さんだ。

薬師寺東京別院では、これまで毎日9時~17時のみ開放していたお写経道場を、第一・第三金曜日に限り、勤め帰りの人々のために18時から21時までの時間帯にも開放するようになった。

2月の第一金曜日 18時。東京・五反田駅から徒歩約8分の池田山にある薬師寺東京別院の本堂(お写経道場を兼ねる)には、三々五々、その日の勤めを終えた人々が集まってきた。

根来さんがいう。

「令和2年の5月頃でしょうか。まだ世の中でテレワークが広まり始める前でしたが、コロナが蔓延しており、遠出をしたり、仲間と会ったりといったこともなかなかしづらい状況の中、週末にお写経のために薬師寺東京別院を訪れる人が急に増えたんです」

僧侶が着装する袈裟を簡易化した輪袈裟(右)を首にかけて写経をする。口の清めには丁子(左)が使われる(希望者のみ)。

薬師寺の「お写経」には伝統がある。故・高田好胤管長が日本で初めて「お写経勧進」を始めたのが昭和43年。以来、50年あまりで880万巻もの写経が薬師寺に納められている。

「お写経勧進」とは、仏教の経文を書き写し奉納するための志納料を募ることで、納められた志納料で失われた金堂をはじめ、薬師寺の伽藍を復興させることだ。今流行りのクラウドファンディングの先駆けのようなものかもしれない。現在、多くのお寺で採用している、下書きの上に紙を重ねて置き、文字を写す写経の方法も薬師寺が最初といわれている。

薬師寺の東京別院でもまた、奈良の薬師寺と同様、毎日、「お写経道場」を開いており、ここに納められた「お写経」は、奈良の薬師寺に納められ、未来永劫、仏様のもとに安置されることになる。

前出の根来さんによると、コロナ禍が始まって以来、これまでの写経の常連者とは別に、30代や40代の人々が「お写経」に興味を持ち、薬師寺東京別院の門をくぐるようになったという。

「コロナで出かけられないし、心がなんとなくざわつくし、お写経によりどころを求める若い世代が増えたのかもしれません。それで、平日は仕事でなかなか日中、時間を取れない人たちが夜間もお写経ができる機会を設けたいと思いました」

こうして始まったのが薬師寺東京別院の「夜写経」だ。

自由に始めて、自由に書く

大きな像型の香炉「香象」をまたぐことでお香の煙を体に浴びせ、体全体を清めてお写経道場に入る。

「お写経」は習字とは異なる。うまく字を書くための修業ではないし、誰かの指導を仰ぐものでもない。経文の意味を考えながら写す人もいれば、下に書かれている文字をひたすら写し書きする人もいる。1時間から1時間半ほどが目安だ。

「お写経を始める前に、まず、身・口・意(心)の三つによって人が行なう業(ごう)、三業(さんごう)を清めます。道場に入る際、香象という象の形をしたお香を焚く香炉をまたぐことで体を清めます。略式の袈裟となる輪袈裟を首にかけることで仏前に身をおく心を調え、丁子(クローブ)を口に含むことで口を清めます。ただ、現在はこうした状況なので、輪袈裟や丁子は希望者のみとしております」(根来さん)

必ずしもこうでなければならない、というものではなく、自由なところが「お写経」の良いところかもしれない。強いていえば、薬師寺において未来永劫保管されることを前提としているため、長い歳月を経ても劣化してしまうおそれのあるボールペンやマジックなどではなく、劣化しない墨か鉛筆で「お写経」をすることが推奨されている。

「お写経は自由です。自由に始めて、自由に書いて、自由に終わっていいのです。時間の都合や気持ちののりで今日はここまで、といって途中でやめて一旦持ち帰り、次の時に続きを書き上げる、という方もいらっしゃいます」(根来さん)

密を避けるために、現在は16席ほど「お写経」の席が用意されているが、みな自由な時間に入り、自由に退出するため、夜写経の日はだいたい常時10人ほどが静かに「お写経」をしているという。

コロナ禍が始まってから夜写経に訪れるようになったという女性に話を聞いた。

「前から写経というものに興味があったのですが、コロナが始まって他に出かける用事もあまりないので、都内でどこか落ち着いて写経できるところはないかなと探していたら、薬師寺東京別院で毎日写経できることがわかりました。夜もやっている日があるということで、仕事帰りにも立ち寄って写経するようになりました」

この女性、夜写経はほぼ毎回参加しているそう。会社の同僚と来ていた女性ふたり組は、もともと別々に写経に来ていたが、会話するうちに同じ薬師寺東京別院で写経をしていたことがわかり、仕事帰りに連れだって夜写経にやってきたという。

根来さんによると、「お写経」をする際、無になって写すという人もいれば、心にある雑念を整理しながら写している、という人もいるそうだ。

「普段忘れていた様々な思考が、集中して文字を写し書いていると、次から次へと頭の中で湧いてきます。それを黙々と整理していくと、いつか思いつく雑念もなくなってきて、ただひたすら書く、という行為になっていきます」

たくさんの荷物を抱えて長い道のりを歩くのは大変だ。時には荷物を下ろして休憩したくなる。それと同じで、心の荷物(雑念)を一旦、「お写経道場」で下ろして、心を休ませるのもいいのではないか、と根来さんはいう。

するも自由、しないも自由。それでも、「お写経」をすることで少しだけ心が落ち着くのであれば、筆をとってみるのもいいかもしれない。

東京別院で仏前に収められた「お写経」は、全て奈良の薬師寺に運ばれ、薬師寺が存続する限り未来永劫、薬師寺にて仏様のもと保管される。

薬師寺東京別院の本堂兼お写経道場での「夜写経」の様子。コロナ禍で密を避けるため席の感覚が空けられている。

文/ 一乗谷かおり

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